大相模調節池取水施設

大相模調節池取水施設|導水路水門

大相模調節池取水施設に到着。この施設は大相模調節池(レイクタウン)の水源で、平常時、元荒川から水を取り入れて、地下の導水路を通じて大相模調節池に水を送っている。
 
取水施設には、水を取り入れる「越流堤」と「浄化用水門」、異常出水時に洪水流入を防ぐ「導水路水門」などがある。上の写真は「導水路水門」
 
大相模調節池取水施設をあとに、元荒川緑道を上流に向かって歩く。

大成川樋門

大成川樋門

向かって右手に見えるのは大成川樋門(たいせいがわ・ひもん)

大成川排水機場

大成川排水機場

向かって左手、土手下にある施設は大成川排水機場。

樋門と排水機場の役割

樋門は、住宅地などの水を川に排水するための施設。大雨などで元荒川の水位が上がったときは、元荒川の水が住宅地に逆流しないように、バルブを回して放流口(ゲート)を閉める。
 
一方、放流口を閉められて出口を失った住宅地の水は、排水機場内の排水ポンプで汲み上げられて、元荒川に、はき出される。これによって住宅地の浸水被害が軽減される。

下河原排水機場

下河原排水機場

大成川排水機場から元荒川緑道を100メートルほど上流に歩くと、左手、土手下に下河原排水機場が見えてきた。土手を降りて、南下。奥州古道(堤土手道)に向かう。

奥州古道(堤土手道)

小休止

下河原排水機場から200メートルほど南に歩くと、丁字路にぶつかった。左右に延びている道が奥州古道。木陰で小休止。
 
越谷市内には、江戸時代以前から奥州(東北地方)との往来に使われたとされる道(奥州古道)が、何箇所か残っている。
 
今回の史跡めぐりでは、越谷市内を通る奥州古道のうち、江戸前期に作成された「正保国絵図」(※1)に記載された「堤土手道」と「元荒川緑道」を歩く。

※1 正保国絵図(しょうほうくにえず)…江戸前期・正保元年(1644)、幕府が諸大名に命じて作成させた国ごとの地図。

ガイド責任者の秦野氏から、「越谷市内を通る奥州古道(往古奥州道)は、元荒川(利根川本流)右岸の自然堤防(跡)上に存在した古道である」という解説があった。解説の内容は割愛。

越谷市内を通る奥州古道については、秦野氏が2023年6月に発表した「『往古奥州道』は『大河の自然堤防(跡)上』の古道」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/230624_ohko_ohsyuudoh_h_h.pdf

移動|奥州古道(堤土手道)

奥州古道(堤土手道)

※写真は秦野氏提供

小休止を終え、奥州古道(堤土手道)を西に進む。道の両脇一帯は低地になっている。この風景からも、この道はかつて元荒川(利根川本流)の自然堤防だった、ということがうかがわれる。

外池跡・内池跡

外池跡・内池跡

道なりに進むとY字路にぶつかった。奥州古道はY字路を右。
 
このあたりには、かつて、奥州古道(堤土手道)をはさんで、「外池」(そといけ)と「内池」(うちいけ)と呼ばれる大きな池があった。上の写真の右手、盛り土(もりつち)されているあたりが外池跡。前方正面に見える畑のあたりが内池跡。
 
外池と内池は、江戸後期・天明6年(1786)の大洪水によって、土手道(自然堤防)の決壊によってできた。今は面影もない。

Y字路を右折

Y字路

※写真は秦野氏提供

Y字路を右に折れて奥州古道(堤土手道)を進む。ここからはしばらく砂利道が続く。

移動|奥州古道(堤土手道)

奥州古道(堤土手道)

この道は今も利用されている。レイクタウンから 1キロメートルほどの場所に、日本の原風景のようなこんな場所がまだ残っているというのは驚きだ。

外池跡

奥州古道|外池跡

※写真は秦野氏提供

上の写真の左手、盛り土されている草むらは外池跡。先頭を歩く参加者の大山氏。「越谷にもこんな道があったんだ。知らなかったなぁ……」

内池弁財天|おいてけ堀

内池弁財天|おいてけ堀

Y字路から奥州古道(堤土手道)を 200メートルほど歩いて、内池弁財天に到着。空堀(からぼり)の真ん中に土が盛られ、小さな祠が建っている。

記念撮影

内池弁財天で記念撮影

石鳥居の前で記念撮影。
 
この場所は八坂神社(越谷市大成町1-71-1)の裏手になる。弁天様を祀る内池(通称・おいてけ堀)には、「白蛇伝説」と「おいてけ堀伝説」というふたつの伝説が残っている。

弁天内池に伝わる伝説については、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏が「大相模(旧・見田方村)・八坂神社裏の『オイテケ堀』伝説―本来の伝説は白蛇伝説―」で、詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/739.pdf

内池弁財天のご神体

内池弁財天のご神体

※1枚目の写真は秦野氏提供

内池弁財天の50メートルほど南、八坂神社裏手の祠の中に年代不詳の板碑の破片が納められているが、この板碑は内池弁財天のご神体。
 
内池弁財天をあとに、奥州古道(堤土手道)を西南西に進む。

大相模久伊豆神社

大相模久伊豆神社

大相模久伊豆神社に到着。旧・東方村(現・大成町)の鎮守。創建年代は不詳。参道入口には樹齢数百年といわれているイチョウの大木が二本あって、太いしめ縄が張られている。ご神木は鳥居をくぐった右手にあるヒノキとエノキの双樹。

大相模河畔砂丘

富士塚|大相模久伊豆神社

※写真は秦野氏提供

越谷市内には、元荒川の曲流(曲流跡)沿いに、五つの河畔砂丘(かはんさきゅう)がある。

  1. 袋山河畔砂丘
  2. 大林河畔砂丘
  3. 北越谷河畔砂丘
  4. 東越谷河畔砂丘
  5. 大相模河畔砂丘

大相模久伊豆神社は「大相模河畔砂丘」の一画にあり、標高は5.9メートル(※2)。大相模河畔砂丘のもっとも高い位置に鎮座している。

※2 秦野秀明(2021)「越谷市内の『河畔砂丘』及び『自然堤防」の標高』(http://koshigayahistory.org/211215_hyohkoh_h_h.pdf

関連文献

越谷市内の河畔砂丘については、越谷市郷土研究会の秦野氏が、「河川の造った地形―越谷市内の河畔砂丘と自然堤防」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/160228_bgs_hh.pdf

移動|奥州古道(堤土手道)

富士塚|大相模久伊豆神社

大相模久伊豆神社を詣でたあと、奥州古道(堤土手道)に戻って、次の目的地へ向かった。写真の右手、元荒川の左岸側に見える校舎は越谷東高等学校。