2021年4月14日・水曜日。越谷市郷土研究会主催の史跡巡りに参加。JR武蔵野線・越谷レイクタウン駅から吉川駅にかけて中川周辺の史跡や寺社など計16箇所を巡った。二童子庚申塔や二十一仏板碑など珍しい石仏も見学。案内者のうんちくある解説で、知られざる歴史を紐解くことができた。

集合|越谷レイクタウン駅南口

越谷レイクタウン駅南口

集合場所はJR武蔵野線・越谷レイクタウン駅南口。午前8時15分、受付開始。参加費を払ったあと資料を渡された。今回参加したのは越谷市郷土研究会が主催する「第508回 史跡めぐり『千疋屋』のふるさとを歩く」。主な立ち寄り先は、日枝神社・天満天神→金剛寺→東養寺墓地→伊南理神社→新中川水管橋→木売不動堂…ほか。

あいさつ

出発前の挨拶

今回の参加者は15人。案内役を務めるのは3人。越谷市郷土研究会・渡邊会長のあいさつのあと、案内者の秦野氏から本日の行程と注意事項が伝えられ、8時45分、出発。

出発

出発

外はあいにくの雨。傘をさしながらの史跡めぐりとなった。イオンレイクタウン kaze の東側を通ってレイクタウン中央通りを右折。 mori を左手に見て進む。

レイクタウンスポーツ公園|トイレ休憩

レイクタウンスポーツ公園|公衆トイレ

9時5分。出発して20分。本日の史跡めぐりではトイレ休憩の場所が少ないということで、レイクタウンスポーツ公園(越谷市レイクタウン5-10)にある公衆トイレに立ち寄る。

移動|越谷市東町

砂利道

レイクタウンスポーツ公園をあとに東町交差点を越えて越谷流山線(埼玉県道・千葉県道52号)を東へ。300メートルほど進んで左折。舗装されていない砂利道を進む。

旧四条村

旧・埼玉郡八條領四条村。現在の越谷市東町三丁目

日枝神社・天満天神

日枝神社・天満天神|越谷市東町

9時20分。日枝神社・天満天神に到着。住所は越谷市東町3-100-1。もともとは二社とも中川の河川敷(吉越橋の真下あたり)にあったが、中川の改修工事と吉越橋の建設のために、昭和62年(1987)に、この場所に移された。

石仏と石碑

石仏と石碑

鳥居をくぐった参道右手に石仏や石碑がまとめられている。手前の五基は、左から①塞神塔(明治3年=1870年)②道標付き塞神塔(明治3年=1870年)③文字庚申塔(江戸後期・文政6年=1823年)④「水神社」文字塔(江戸後期・寛政6年=1794年)⑤「宇賀神」(※1)文字塔(江戸後期・寛政6年=1794年)――。石仏の後ろに並んでいる三基の自然石の石塔は富士登山記念碑。

※1 宇賀神(うがじん)とは、日本神話に登場するウマノミタマノカミのこと。もともとは穀物の神様(穀霊神)として崇められていたが、弁財天と習合し、財をもたらす福の神として信仰された。

四条四軒家

境内|日枝神社・天満天神

このあたり(現在の越谷市東町=あずまちょう)は、かつては四条村(しじょうむら)と呼ばれた。日枝神社は四条村の鎮守であった。拝殿の前で、案内役の秦野氏から「四条四軒家」(しじょうよんけんや)についての解説があった。

案内役の秦野氏

四条村の開発は、江戸前期の寛永年間(1624~1643)ごろに開発が始まったと思われます。当時、四条村の開発に携わったと伝わる四軒の家があり、「四条四軒家」と呼ばれていました。

伊豆石

伊豆石

社務所の脇に敷石が置かれている。案内役の秦野氏から「この敷石の一部には、かつて、中川の河川敷にあった本殿の基壇(※2)に使われていたと思われる伊豆石(※3)が再利用されている」との話があった。

※2 基壇(きだん)…建物の下に石を積んで敷地面より一段高くつくった土台部分のこと。建物への水の浸入を防いだり、地盤沈下や耐震対策としての役目もある。

※3 伊豆石(いずいし)…伊豆半島で産出される石で、耐火性にすぐれ、風化しにくいという特徴があり、江戸城の石垣にも使われた。

9時30分。日枝神社・天満天神をあとに次の目的地へ

妙音院・聖観音像の厨子

聖観音像の厨子

2番目に立ち寄ったのは、妙音院・聖観音像の厨子。個人宅の敷地内に設けられた展示部屋に保管されている。江戸幕府が開府される1年前の慶長7年(1602)に制作され、江戸中期・宝暦12年(1762)に修復されたもの。もともとは妙音院という寺にあった。厨子の中には聖観音像が安置されている。

根郷橋

根郷橋

妙音院・聖観音像の厨子から北東に40メートルほど歩くと、排水路の上に架かる白い手すりの橋に出た。橋の名前は根郷橋(ねごうばし)。下を流れているのは、四条幹線排水路(しじょうかんせんはいすいろ)。東町二丁目と三丁目の境を流れる水路で、中川の左岸に流入されている。排水路には緑色の転落防止柵が張られている。根郷橋から中川までは約150メートル。

久兵衛様墓所

久兵衛様墓所

根郷橋の北詰角地にあるのは「久兵衛様」と呼ばれた四条村の名主を務めた家の墓所。もともとは中川の土手道脇にあったが、中川の拡張工事のさいに、この場所に移された。

案内役の秦野氏

墓所の隣にある建物は、ポラス暮し科学研究所(越谷市東町二丁目)ですが、この場所は、久兵衛様の屋敷跡地です。広大な屋敷の周囲には構え堀もありました。

移動|四条幹線排水路

四条幹線排水路

根郷橋から四条幹線排水路脇の道に沿って東へ進む。前方に中川の土手が見える。

金剛寺四条東墓地

金剛寺四条東墓地

9時50分。5番目の見学先、金剛寺四条東墓地(旧・妙音院墓地)に到着。住所は越谷市東町3-354。中川の右岸土手脇。現在は、金剛寺が管理しているが、もともとは妙音院と呼ばれた真言宗の寺院だった。江戸時代、中川の両岸沿い・四箇所の領地にある八十八箇所の弘法大師像を巡礼する霊場(四箇領八十八箇所霊場)の六十二番札所になっていた。

墓地内にある石仏

墓地内|金剛寺四条東墓地

今回は墓地の中には入らなかったが、敷地内には、①江戸中期・元禄16年(1703)の法華経供養塔②江戸中期・宝永7年(1710)の六十六部廻国塔③江戸後期・天保11年(1840)の「馬頭観音」文字塔④江戸中期・元禄7年(1694)の地蔵像付き百堂巡礼塔――のほか、江戸中期・延享4年(1747)と元禄16年(1703)の青面金剛像庚申塔などの石仏がある。

移動|中川右岸土手道

中川土手道からの景色

金剛寺四条東墓地をあとに中川の右岸側の土手道へ。ふり向くと、正面に金剛寺四条東墓地、左手に四条幹線排水路、前方にポラス暮し科学研究所の屋根が見える。

前方は吉越橋

中川右岸土手道

雨の土手道を上流に向かって歩く。前方に見える橋は吉越橋。

吉越橋下|日枝神社・天満宮跡地

吉越橋の真下

吉越橋の真下に到着。最初に訪れた東町三丁目の日枝神社と天満宮は、かつては、ちょうどこのあたり(吉越橋の真下・中川の右岸側河川敷)にあった。日枝神社があったのは、土手道から見て左手(中川の右岸側河川敷)。土が四方に盛り上がっていて、この場所に神社があった痕跡がうかがえる。天満宮は土手道の右側(東町くぬぎ通り側)にあった。昭和62年(1987)に、吉越橋の建設工事のために、二社とも現在の場所に移された。
 
上の写真で前方に見える白いガードレールの道はかつての土手道。今は廃道になっている。

「荒神様」石塔

「荒神様」石塔

吉越橋をあとに土手道を上流に向かって歩くこと80メートル。土手道の手すりがついた階段を降りる。東町くぬぎ通りを渡った角地に、小さな祠型(ほこらがた)の石塔が立っている。造立は江戸中期・元禄8年(1695)。左側面に「元禄八乙亥年」「十二月吉日」の銘が見える。正面には、主銘や主尊は何も刻まれていないが、地元では荒神様(こうじんさま)と呼ばれて祀られてきた。

移動|東町三丁目

畑地|越谷市東町三丁目

荒神様をあとに畑地と住宅地の間を通って南へ進む。150メートルほど歩くとT字路にぶつかる。