江戸時代後期、日本一の力持ちとうたわれた怪力の持ち主が越谷の三野宮村(現在の越谷市三野宮)にいた。名前は三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)。力持ちを見せ物として一座を結成。諸国を回って活躍した。越谷市内には卯之助が持ち上げて奉納した力石(ちからいし)が6個現存している。三ノ宮卯之助の銘が刻まれた力石を取材した。

三ノ宮卯之助銘の力石

越谷市内に現存する三ノ宮卯之助銘の力石は、越ヶ谷久伊豆神社に一個、三野宮香取神社に四個、三野宮向佐家に一個、計六個。これらの力石は、「三ノ宮卯之助銘の力石」(さんのみやうのすけめいのちからいし)の名称で、越谷市の有形文化財(歴史資料)に指定されている。

力石(ちからいし)とは

江戸時代から明治時代にかけて、力比べや体を鍛えるために使われた石のこと。村いちばんの力自慢を競ったり、村落対抗の力くらべなど、娯楽としても盛んだった。力持ち大会で優勝した人の名前や持ち上げた石の重さなどを刻んで神社や寺院に奉納された力石も見られる。『日本一の力持 越谷出身 三ノ宮卯之助』生誕200年記念文化財講演会(主催 越谷市教育委員会/NPO法人 越谷市郷土研究会)講師・高崎力(平成19年8月25日)のレジュメによると、越谷市内では136個の力石が確認されている。

三ノ宮卯之助顕彰碑

三ノ宮卯之助顕彰碑|越谷市中央市民会館前広場

2021年4月20日、越谷市中央市民会館前広場に、三ノ宮卯之助の功績をたたえた三ノ宮卯之助顕彰碑が設置された。顕彰碑はNPO法人越谷市郷土研究会監修のもと越谷ロータリークラブが寄贈。顕彰碑(けんしょうひ)には、力比べの巡業で達成した卯之助の年譜や、卯之助が持ち上げて奉納した力石が全国各地に残されていることなどが、記されている。

越ヶ谷久伊豆神社

越ヶ谷久伊豆神社の力石

越ヶ谷久伊豆神社(越谷市越ヶ谷1700)に奉納された三ノ宮卯之助銘の力石は、拝殿に向かって右手、一対の御神燈の奥、榊を背にした場所にある。

力石

力石

しめ縄が張られた台座の上に載っている大きな石が力石。力石の上に白い御神盃が置かれている。

重さ約190キロ

三ノ宮卯之助銘の力石

力石には「奉納 天保二辛卯年四月吉日 三ノ宮卯之助持之 五十貫目 本町 㑹田権四郎」と刻まれている。江戸後期・天保2年(1831)、卯之助が24歳のときに、重さ50貫目(約190キログラム)のこの石を持ち上げ、越ヶ谷本町の会田権四郎が、記念に久伊豆神社に奉納したものである。
 
越ヶ谷久伊豆神社の力石について、加藤幸一氏は『三野宮卯之助の伝説』(NPO法人・越谷市郷土研究会)で、次のように述べている。以下引用。

越ヶ谷の久伊豆神社に卯之助24歳の時の力石がある。天保2年(1831)、越ヶ谷町の本町の会田権四郎によって取り仕切られた「勧進奉納力持興行」が行なわれ、越ヶ谷の久伊豆神社に多大な貢献をしたと思われる。現在の越ヶ谷の久伊豆神社の秋まつりの最初の行事では、台座に載っている卯之助の力石、及びすぐ背後の榊に向かって神官が祝詞をあげて、神の降臨を仰ぐ。これは、天保二年の卯之助の力石興行に感謝しての名残と考えられる。

三野宮香取神社

三野宮香取神社の力石

卯之助の出身地である三野宮村の鎮守・三野宮香取神社(越谷市三野宮333)には、三ノ宮卯之助銘の力石が四個並べられている。場所は拝殿に向かって左手。

大磐石

大磐石

いちばん大きいのが大磐石(だいばんせき)。重さは約520キログラム。「奉納 大磐石 嘉永元戊申三月吉日 而指之 三ノ宮卯之助」と刻まれている。嘉永元年は、江戸後期、1848年。卯之助が41歳のときに持ち上げた。

白龍石

白龍石

二番目に大きいのが白龍石(はくりゅうせき)。重さ約200キログラム。「奉納 白龍石 三ノ宮卯之助持之」と刻まれている。嘉永2年(1849)、卯之助が42歳のときに持ち上げた。

山王石

山王石

三番目に大きいのが山王石(さんおうせき)。重さは約170キログラム。「奉納 山王石 嘉永元年三月指之 三ノ宮卯之助」と刻まれている。卯之助が41歳のときに持ち上げた。

指石

指石

いちばん小さい石が指石(さしいし)。重さ約110キログラム。「 奉納 指石 三ノ宮卯之助 」(※1)と刻まれている。嘉永元年(1848)、卯之助が41歳のときに持ち上げた。

※1 石の劣化が進んでいて文字が正確に読みとれないので、銘文は境内の説明板によった。


向佐家

三野宮の向佐家にも「奉納 さし石 三ノ宮卯之助」との銘がある重さ約100キログラムの力石が保存されているが、個人宅のため取材は控えた。

三ノ宮卯之助とは

三ノ宮卯之助銘の力石|説明板(越ヶ谷久伊豆神社)

三ノ宮卯之助とは、どのような人物であったのか。言い伝えや記録が記されている文献から「生い立ち」「活躍」「最期」について、まとめた。なお引用した文献については末尾に一覧で表示した。

生い立ち

三ノ宮卯之助は、江戸後期・文化4年(1807)に、武蔵国岩槻藩領三ノ宮村(現在の越谷市三野宮)に生まれた(※2)。文化4年の干支は「卯」(う)の年にあたり、三ノ宮村に生まれたことから、三ノ宮卯之助と呼ばれた。本名は不詳。

※2 卯之助の出生に関する記録は残っていないが、子孫の家に安置されている卯之助の位牌に、「嘉永七年寅年七月八日」「三ノ宮卯之助 四十八歳」と、没年と享年(死んだときの年齢)が書かれていることから、逆算して、文化4年の生まれ、というのが定説になっている。

卯之助は、小柄で体の弱い子供だった。村の力比べや相撲大会ではいつも最下位。「力なし」「弱虫」とばかにされていた。奮起した卯之助は人目を忍んで体を鍛え、やがて村いちばんの力持ちに成長した。
 
そんなある日、米俵を積んで江戸へ向かう舟が、元荒川の浅瀬に乗り上げた。船頭や村人たちが小舟を動かそうとしたがびくともしない。これを見ていた卯之助が、立ち往生した舟の下に潜り、両脚で船底を持ち上げて移動させた。卯之助の怪力ぶりは広く知れ渡っていった。

活躍

やがて卯之助は、力持ちを見世物とする一座を結成し、諸国を巡った。興行先は、関東周辺をはじめ甲信越や関西方面にまで及んだ。遵行先で卯之助が持ち上げて奉納した力石(※3)が各地に残っている。

※3 卯之助の名前の刻まれた力石は、越谷市をはじめ深川八幡宮(東京都)、鶴岡八幡宮(神奈川県)、諏訪大社(長野県)など全国で38個、確認されている。

26歳のときに、卯之助一座は、江戸の深川八幡宮境内において、徳川11代将軍・家斉(いえなり)の御前で、力持ちの芸を披露。力持ち興行を将軍がご覧になったのは、前例のない名誉なことであった。29歳のときに、江戸力持ち番付で関脇になり、41歳のときに東の大関に昇進。当時の番付は「大関」が最高位であった。
 
卯之助が48歳のとき、江戸詰(えどづめ)の関西の大名が、江戸と関西、それぞれの力持ち1位の力士(大関)を対決させ、日本一の力持ちを決める催しを開いた。江戸方の代表として出場したのは卯之助。江戸の大名屋敷で試合をし、卯之助が勝利。「日本一の力持ち」は卯之助に決まった。

最期

さて、決定戦が終わった夜、双方の力士や関係者が大名屋敷に呼ばれ、祝いの酒盛りが催された。酒宴が終わって帰宅途中の卯之助は、路上で突然苦しみだし、もだえ倒れてその場で亡くなった。突然の死であったために、死因については、食中毒とも対戦相手側による毒殺説ともいわれているが、真偽のほどは不明。卯之助の最期の地は不明である。墓も見あたらない。
 
現在、三ノ宮卯之助の子孫のお宅(越谷市三野宮)に、卯之助の位牌が安置されている。位牌の表側に刻まれている戒名は「到殺清㐰(※4)士」(とうさつせいしんじ)。「倒刹」の「刹」の字は「殺」の略字体ともいわれているので、「倒刹」を「倒殺」に置きかえると、「倒れて殺された」とも読める。毒殺説を暗示するような戒名である。

※4 㐰は信の異字体。「到殺清㐰士」は「到殺清信士」のこと。信士は男性の戒名の下に付ける称号。

位牌の裏面には「日本市大力持(にほんいち おおぢからもち)三ノ宮卯之助 四十八歳」と書かれている。この位牌は、卯之助の名が刻まれた力石とともに、日本一の力持ちとして全国に名をはせた三ノ宮卯之助という人物が越谷に存在したことを示す貴重な資料ともいえる。

引用文献一覧

引用文献一覧

1)『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「三野宮香取神社とその集落」pp153-155
2)『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「越ヶ谷久伊豆神社・境内地の碑と藤」pp39-40
3)『埼玉の神社 北足立 児玉 南埼玉』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)越谷市「三野宮香取神社」p1160
4)『越谷の歴史物語』(第一集)越谷市役所(昭和53年8月20日発行)「日本一の力持ち三ノ宮卯之助」pp137-139
5)『越谷市史・第一巻』(通史上)越谷市役所(昭和50年3月30日発行)第五章 村の町のくらし 第四節 村びとの生活「三ノ宮卯之助」pp977-979
6)『三ノ宮卯之助の伝説』(NPO法人・越谷市郷土研究会)加藤幸一