塞神(さえのかみ)は元来、厄病神や悪霊の侵入を村境などで防ぐ防塞の神として、古来から信仰されていたものだが、越谷市の大成町と川柳町には、あきらかに庚申塔だったものを塞神塔に改刻した石仏が6基現存している。現地で調査した改刻塞神塔を紹介するとともに、どうして庚申塔が塞神塔に改刻されたのか、越谷市の大成町と川柳町に集中しているのはなぜか、この二点についても考察していく。

越谷市に現存する改刻塞神塔

改刻塞神塔

越谷市に現存している塞神塔に改刻された庚申塔には、青面金剛像庚申塔の一部に、あとから「塞神」と銘を刻んだ「塞神追刻・青面金剛像庚申塔」と、浮き彫りされた青面金剛像や「青面金剛」「庚申塔」などの主銘が彫られていた箇所をすべて削り取って、庚申塔の痕跡を消し去り、新たに「塞神」と刻んだ「改刻塞神塔」の二種類がある。改刻時期はすべて、明治新政府による 神仏分離令 が発令された明治初年ごろと思われる。

神仏分離令とは

明治初年(1868年)に維新政府が行なった神道保護と仏教抑圧のための宗教政策。これまでの神仏習合(しんぶつしゅうごう=神道と仏教を同一視し融合させる信仰。神社に仏像を置いたり、寺に鳥居を建てたりした)を禁止して、神仏分離(しんぶつぶんり)を布告。神社から仏教色を排除することを命じた明治政府による「神仏分離令」が、仏教は不浄であるという過激な考えを生み出し、寺や仏像を破壊するなどの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏法を廃し釈迦の教えを捨てる)運動が全国に広がった。

なぜ庚申塔が塞神塔に改刻されたのか

庚申信仰は、もともとは道教の影響を受けた民間信仰なので、必ずしも神仏分離政策とは関係ないはずだが、どうして廃仏毀釈の対称となったのか。それは、越谷市に現存している改刻塞神塔の地区と関係がある。
 
越谷市で確認できる改刻塞神塔(全6基)は大成町と川柳町に集中している。大成町と川柳町は、江戸時代、忍藩(おしはん=現・埼玉県行田市)の領地(飛地=とびち)であった。
 
忍藩の飛び地は、東方(ひがしかた)村、見田方(みたがた)村=現在の大成町(たいせいちょう)、南百(なんど)村、四条(しじょう)村、別府(べっぷ)村、千疋(せんびき)村=現在の東町(あずまちょう)、麦塚(むぎづか)村=現在の川柳町(かわやなぎちょう)の一部、柿木(かきのき)村=現在の草加市の柿木町(かきのきちょう)にかけて広がるが、そのうち、塞神塔に改刻された庚申塔が顕著にみられるのは、見田方村と東方村の山谷(さんや=現在の川柳の上谷〔うわや〕)である。
 
佐藤久夫氏によると、忍藩の飛び地は「柿木領八ヵ村」とか「八条領内忍藩村組八ヵ村」などと呼ばれ、①東方②見田方③南百④四条⑤別府⑥千疋⑦麦塚⑧柿木――の八つの村を指すという。(※1)

※1 詳細は佐藤氏の論文「忍藩私領八ヵ村の村事件に見る領主交代と村民」『越谷市郷土研究会会報「古志賀谷」第四号』(昭和58年〔1982〕3月刊)pp.1-7. 参照( http://koshigayahistory.org/57.pdf

忍藩の庚申塔が塞神塔に改刻された経緯

『越谷ふるさと散歩・上』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「見田方の八坂神社」の項 pp.83-84. に、忍藩の庚申塔が塞神塔に改刻された経緯について記されている。以下引用。

忍藩は明治元年維新政府による神仏分離令が発せられたとき、国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね)の門人・木村御綱(きむら・みつな)を登用して、神仏分離に関する処置を担当させた。このとき木村御綱は忍藩内に建てられていた庚申塔をすべて破却したり改刻したりしたという。
 
庚申信仰は道教の影響を受けた民間信仰で、必ずしも神仏分離政策とは関係なかったが、篤胤はかねてより『庚申などと申すな、塞神と唱えよ』と説いていたことから、篤胤の門人であった御綱が、こうした処置をとったと思われ、この改刻庚申塔もそのひとつであったとみえる。なお忍藩であった村々の中にはこうした改刻塞神塔が数多く見られる。

『越谷市史(一)通史上』越谷市史編さん室(昭和50年3月20日発行)「第10章 庚申塔」にも「かつて忍藩領(現・埼玉県行田市)であった東方・見田方地域に集中しているのは、明治初年の神仏分離令の布告とともに忍藩に登用された国学者・平田篤胤の門人・木村御綱の手によって、篤胤の説く『庚申などと申すな、塞神と唱えよ』が、忍藩で実施されたための改刻のようである。明治初年の忍藩の宗教政策が、忍藩領の見田方村などにおいても、庚申塔の破却や改刻という形で行なわれたことを実証している重要な資料のひとつといえよう」とある。

改刻塞神塔

越谷市の大成町と川柳町に改刻塞神塔が見られるのは、かつてこの地が、明治初年に「庚申塔」を「塞神」に改刻する政策を強行した忍藩の領地であったことがその理由である。

補訂|木村御綱について

上記『越谷ふるさと散歩・上』『越谷市史(一)通史上』には、木村御綱(きむらみつな)は平田篤胤の門人と書かれているが、2023年6月3日、竹内 宙明氏から「木村御綱を平田篤胤の門人としているのは誤り」との指摘を受けた。
 
竹内氏の指摘を以下、引用する。

忍藩で明治新政府の命じた神仏分離策の対応を任された木村御綱を平田篤胤の門人としているのは誤りだと思います。木村御綱は、同じ忍藩士で国学者の黒沢翁満の門人です(黒沢翁満著『言霊のしるべ』に「門人 田中千村 木村御綱 校」とある)。
 
御綱はおそらく明治新政府の進める神仏分離策が平田派国学の影響下にあることを知り、平田篤胤著『玉襷』で庚申塔造立に際しては塞神三柱の名を彫り付けるよう提言していたのを受け、庚申塔の改刻を命じたと推測されます。

また、国立国会図書館「レファレンス協同データベース」にも「黒沢翁満」事例詳細に「黒沢翁満の子、転(うたた)、門人木村御綱」(※2)との記述が確認できる。

※2 出典:レファレンス事例詳細(https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000187865

木村御綱は黒沢翁満の門人

本ブログ(越谷探訪)では、竹内氏の指摘を受け、「木村御綱は、平田篤胤の門人ではなく、黒沢翁満(くろさわ おきなまろ)の門人」であると改める。

塞神追刻・青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔に「塞神」の文字を追刻した石仏(塞神追刻・青面金剛像庚申塔)を二基紹介する。

上谷稲荷神社|三基の塞神塔

三基の塞神塔|上谷稲荷神社(越谷市川柳町)

上谷(うわや)稲荷神社(越谷市川柳町5-27)の鳥居横に三基の塞神塔が並んでいる。向かって左端と中央は「塞神」文字が追刻された庚申塔。右端は「塞神」文字塔。表面を削って庚申塔を塞神に改刻した形跡が見られないので、ここでは、右端の石仏は、改刻塞神塔ではなく、厄病神の侵入を防ぐ本来の塞神としておく。

塞神追刻・青面金剛像庚申塔|上谷稲荷神社

塞神追刻・青面金剛像庚申塔(元禄8年)上谷稲荷神社

青面金剛像庚申塔の造立は江戸中期・元禄8年(1695)。石塔型式は駒型。日月・青面金剛像(一面六臂・合掌型)・邪鬼・三猿が陽刻されているが、日月は削り取られていて、わずかに痕跡が残っている。

青面金剛の頭の横に「塞神」と追刻

「塞神」の追刻

青面金剛の頭の左横に「塞神」の文字が追刻されている。青面金剛の顔も削られた形跡がみえる。

脇銘の「山谷村」とは

「山谷村」(脇銘)

脇銘は「元禄八年亥十一月十八日」「山谷村」(※3)「同行二十八人」とある。
 

※3 かつてこの地(上谷=うわや)は「山谷」(さんや)と呼ばれていたことが『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之七 八條領 東方村の項に「小名 山谷村 元禄国図には、東方村の内、山谷村と書し…」と書かれている。脇銘にある「山谷村」は、そのことを示す貴重な史料といえる。

塞神追刻・青面金剛像庚申塔|上谷稲荷神社

塞神追刻・青面金剛像庚申塔(宝暦3年)上谷稲荷神社

江戸中期・宝暦3年(1753)の青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。日月・青面金剛像(一面六臂・合掌型)・邪鬼・三猿が浮き彫りされていて、石碑の最上部(日月の間・青面金剛の頭の上)に「塞神」の文字が追刻されている。脇銘は「宝暦三酉年」「十一月吉日」

青面金剛の頭の上に「塞神」と追刻

「塞神」の追刻

青面金剛の顔は削られた形跡はないが、「塞神」の文字を追刻するときに邪魔になったとみえて、頭頂部分が半分ほど削り取られている。

改刻塞神塔