2022年9月18日・日曜日。越谷リバーウォーク・ガイドツアー兼第515回越谷市郷土研究会史跡めぐりにガイドとして同行。越谷レイクタウン駅から蒲生駅にかけて蒲生地区南部を中心に綾瀬川や用水路の緑道をたどりながら神社や石仏など計10か所を巡った。
越谷リバーウォーク|2022年9月18日
越谷リバーウォークガイドツアーは、越谷市内の川辺の遊歩道・緑道を散策して「水郷こしがや」の魅力を探すイベントで全3コース。スタンプラリーも兼ねている。
NPO法人住まい・まちづくりセンター、NPO法人越谷市郷土研究会、越谷市住まい・まちづくり協議会が主催。
今回のガイドツアーはCコース
主な見学先は◇川柳橋◇八条用水緑道◇上谷稲荷神社◇田中家のクスノキ◇井原橋◇天神橋◇東京葛西用水緑道◇谷古田河畔緑道◇藤助河岸跡◇蒲生の一里塚◇蒲生久伊豆神社◇出羽堀流路跡◇西幹排緑道◇西浦橋――など。
チェックポイントは10か所。
集合・受付
集合場所はJR武蔵野線・越谷レイクタウン駅南口。集合時間は午前8時20分。受付担当者に参加費300円を払って班を確認。資料が配られた。
ガイド紹介
参加人数は20人。3班に分かれ、各班ごとに越谷市郷土研究会のガイドがついた。ナント1班のガイドはボクがつとめた(大丈夫か?)
出発前にガイドの紹介と注意事項の確認があった。
きかわだひとし氏がお見送り
出発にあたって、衆議院議員(埼玉3区)きかわだひとし氏と、NPO法人越谷市郷土研究会の渡邊会長が、見送ってくれました。
出発
時間は午前8時半。それでは、わが 1班から出発。行ってきま~す!
移動|かわせみ橋
大相模調節池(おおさがみちょうせつち)に架かるかわせみ橋を渡って、レイクタウン茜通りを抜け、武蔵野線・上りガード下の脇道を西に進む。
本日は台風14号の影響もあって、天気はイマイチ。雨模様。大きな声では言えませんが、じつはボクは名高い雨男でして……。参加者のみなさん、スイマセン。
快晴時のかわせみ橋
十日前(2022年9月10日)に、下見で訪れたときは快晴でした。快晴のときのかわせみ橋の風景を載せておきます。今回の参加者のみなさんにもこの景色、見せたかった……。
土地改良記念碑
第1チェックポイントの土地改良記念碑に到着。
この石碑は、大相模地区の土地改良(土地区画整理)事業の完成を記念して、昭和50年(1975)2月に、旧・見田方遺跡公園(現・イオンレイクタウンKazeの南西の敷地内)に建てられたものだが、平成20年(2008)3月に街開きを行なった越谷市レイクタウンの開発に伴い、現在地へ移転された。
今回のガイドツアー責任者である越谷市郷土研究会・副会長の秦野氏が、石碑の材質について解説してくれた。
この石碑(土地改良記念碑)は、いないいし(井内石/稲井石)で造られています。いない石は、黒くて重厚感があり、文字を刻むと鮮明に浮かびあがることから記念碑などに、よく使われます。
川柳橋
続いて川柳橋(かわやなぎばし)へ。土地改良記念碑の南西20メートル。下を流れているのは八条用水(はちじょうようすい)。越谷の瓦曽根溜井(かわらぞねためい)から分水し、越谷・草加・八潮を縦断。葛西用水に合流している。
八条用水緑道
川柳橋は渡らずに手前を左折。八条用水に沿って整備された八条用水緑道の左岸側を南に向かって進む。
富士見橋
富士見通りに架かる富士見橋を渡って、八条用水緑道の右岸側を歩く。フェンス沿いに彼岸花(ヒガンバナ)が咲き乱れていた。
移動|上谷排水
200メートルほど歩いた先のT字路を右に折れる。右手を流れているのは上谷排水(うわやはいすい)。上谷排水の右岸側の小道を歩く。
天満宮
左手の藪の中に小さな社(やしろ)が見える。これは、江戸時代に財をなした旧家の敷地内にあった天満宮。地元では天神様と呼ばれた。往時は天神様の縁日には露店も並び、多くの参拝客でにぎわったという。
天満宮をあとに、上谷排水の左岸側に移動。道なりに進む。
上谷稲荷神社
第3チェックポイントの上谷(うわや)稲荷神社に到着。
幻の山谷村
鳥居の手前に三基の石仏が並んでいる。向かって左端は、青面金剛像が刻まれた庚申塔。脇銘に「元禄八年 亥 十一月十八日 山谷村」と刻まれている(右側の写真の黄色い四角印内)。元禄8年は1695年。
ガイドツアー責任者・秦野氏の解説。
江戸時代、寛永18年(1641)から元禄11年(1698)ごろにかけて、このあたりは「山谷村」(さんやむら)と呼ばれていましたが、元禄8年(1695)に建立された、この庚申塔の「山谷村」の銘は、この場所が「山谷村」であったことを示す貴重な史料といえます。
幻の村山谷村の証明
山谷村については越谷市郷土研究会の秦野氏が「幻の村山谷村の証明 柿木領八ヶ村の確立」(2018)で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/181123_26_sb_04_.pdf
改刻塞神塔
また、左端と中央の庚申塔には「塞神」(さえのかみ)と追刻されている(※1)。これは、明治元年に神仏分離令が発令されたさいに、庚申塔の表面が削られたりして、「塞神」と改刻した証。上の写真の黄色い丸印(○)内。
改刻の背景には、国学者で復古神道を体系化した平田篤胤(ひらたあつたね)の「庚申などと申すな、塞神と唱えよ」の影響が大きいと言われている。
改刻塞神塔も貴重な史料になっている。
※1 上記の写真は快晴時に撮影したもの(撮影年月日は2022年9月10日。下見のときに撮影)
移動|普門院跡
上谷稲荷神社をあとに次の目的地へ。途中、変則の五差路に出る。左手に墓地と赤い屋根の集会所が見えるが、ここは江戸時代、普門院(ふもんいん)と呼ばれた寺院跡。
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると「(普門院の)本尊は不動明王で、現在も墓地の集会所に安置されている」とのことである(※2)
※2 「川柳地区の石仏」加藤幸一(平成19年度調査/平成30年12月改訂)越谷市立図書館所蔵「上谷墓地」19頁