越谷市平方南組の鎮守・女帝神社(にょていじんじゃ)の石塔群と境内の風景を現地で撮影した写真とともにお伝えする。

女帝神社

女帝神社|越谷市平方

創建年代は、つまびらかでないが、江戸後期に幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「平方村」の項に、「女體社」(※1)とあるのが、女帝神社のこと。

※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「平方村」184頁

『新編武蔵風土記稿』では「女體社」(女体社)と記されているが、地元では、古くから「女帝神社」と呼んでいる。『埼玉の神社』(※2)でも「女帝神社」(にょていじんじゃ)となっている。

※2 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「女帝神社」1192頁

歴史

女帝神社|社殿

境内の立札に記された「女帝神社由来記」によると、女帝神社は、往古から平方村南集落の氏神だったが、明治45年(1912)の神社合併を促す政府の政策に従って、平方村の村社であった浅間神社に合祀され、神殿も取り壊された。
 
合祀のあと、どういうわけか、南集落に不幸が続き、合祀先の浅間神社も大正6年(1917)に火災を起こして全焼した。
 
「これは神のおぼしめしにかなわなかったからだ」と考えられ、昭和8年(1932)に、旧社地に仮宮を建てて、女帝大神をもとの地に戻した。以来、不思議と南集落には不幸が起きなくなったという。
 
さらに、昭和42年(1967)には、神殿が新築され、神像の本体も新たに作って奉納された。
 
今でも女帝神社は、地元(平方南組)の氏神として、強い信仰のもとに祀られている。



それでは、境内の石塔群を見ていく。

石塔群

石塔群|女帝神社

境内地の南側(社殿に向かって左側)のフェンス沿いに、鉄パイプに囲まれて、10基の石塔が、整然と並べられている。

  1. 御獄大神文字塔
  2. 天満宮文字塔
  3. 石塔|庚申塔(?)
  4. 普門品供養塔
  5. 文字庚申塔
  6. 青面金剛像庚申塔
  7. 文字庚申塔
  8. 普門品供養塔
  9. 金毘羅大神文字塔
  10. 不明塔

御獄大神文字塔

御獄大神文字塔

向かって右端は、御獄大神文字塔。
 
明治14年(1881)造塔。石塔型式は角柱祠型。主銘「御獄大神」(みたけおおかみ)。 右側面(向かって左側)の銘は「明治十四年巳四月設建」。左側面(向かって右側)は銘なし。

天満宮文字塔

天満宮文字塔

右から二基目は、天満宮文字塔。
 
江戸後期・天保6年(1835)造塔。祠型。主銘「天満宮」。左側面「天保六未年正月吉日」。右側面「□祐真世」

石塔|庚申塔(?)

石塔|庚申塔(?)

右から三基目の石塔は、劣化がひどく年代・主尊・銘は確認できない。石塔型式は舟型。
 
確認できる彫物は、最頂部に日輪と月輪、中央に矛、下部に三猿らしきもの。最下部に寄進者の連名。
 
日輪・月輪・三猿(らしきもの)が陽刻されていることから、この石塔は「庚申塔」と思われる。
 
この石塔を、45年前に発行された『越谷ふるさと散歩(下)』(昭和55年/1980年)では「年代不詳の青面金剛庚申塔」(※3)、27年前に発行された『埼玉の神社』(平成10年/1998年)でも「庚申塔」(※4)としている。

※3 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「女帝神社」56頁

※4 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「女帝神社」1193頁

普門品供養塔

普門品供養塔

右から四基目は普門品(ふもんぼん)供養塔(※5)
 
江戸後期・文政5年(1822)造塔。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「普門品供養」。左側面(向かって右側)の銘は「天下泰平」「国土安穏」。右側面(向かって左側)には「文政五壬午十二月吉日」と刻まれている。

※5 普門品供養塔(ふもんぼん くようとう)とは、法華経の観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん=通称・観音経)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。

台石

台石に「三猿」が陽刻されているが、普門品供養塔の台石に三猿が彫られているとは考えにくい。この台石は、もともとは、ほかの庚申塔の台石だったと思われる。

文字庚申塔

文字庚申塔

右から五基目は文字庚申塔。
 
江戸後期・寛政8年(1796)造塔。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「青面金剛」(しょうめんこんごう)。左側面(向かって右側)の銘は「寛政八丙辰十一月吉日」。右側面(向かって左側)の下部に「中」と刻まれている。

台石

台石の正面に「橫手 南 講中」とある。「橫手」と「南」は、旧・平方村の小名(こな)。「講中」(こうじゅう)は、信仰者の仲間のこと。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

右から六基目は青面金剛像庚申塔。
 
江戸後期・天明4年(1784)像塔。石塔型式は光背型。彫物は最頂部から「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」「三猿」。最下部に寄進者12名の名前。
 
脇銘は「天明四辰正月吉日」

青面金剛

青面金剛像

青面金剛の像容は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつて腕が六本)の剣人型(※6)
 
持物は、左上手に法輪、左中手にショケラ(人身)、左下手に弓。右上手に矛、右中手に剣、右下手に矢。

※6 青面金剛像の多くは、腕が六本で、右手に剣を持ち、左手に「ショケラ」と呼ばれる人身を持つ剣人型(けんじんがた)と、中央の手が合掌している合掌型(がっしょうがた)の二種に大別できる。

邪鬼・二鶏・三猿

邪鬼・二鶏・三猿

青面金剛に踏まれているのは邪鬼。青面金剛の足元(両脇)に二鶏。向かって左が雌鶏(めんどり)、右が雄鶏(おんどり)。邪鬼の下は三猿。向かって左から言わ猿・聞か猿・見猿。

文字庚申塔

文字庚申塔

右から七基目は文字庚申塔。
 
江戸後期・文化5年(1808)造塔。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「青面金剛」(しょうめんこんごう)。下部に三猿が陽刻されている。
 
左側面(向かって右側)の銘は「文化五戊辰三月吉日」。右側面(向かって左側)には「講中」(こうじゅう)とある。

普門品供養塔

普門品供養塔

右から八基目(左から三基目)は普門品(ふもんぼん)供養塔。
 
江戸後期・弘化3年(1846)建立。石塔型式は自然石。主銘は「普門品供養塔」
 
脇銘は「弘化三丙午年」「後五月吉祥日」「平方村」「橫手組」「南組」「講中」。「橫手組」と「南組」は、旧・平方村の小名(こな)。「講中」(こうじゅう)は、信仰者の仲間のこと。

金毘羅大神文字塔

金毘羅大神文字塔

右から九基目(左から二基目)は、金毘羅大神(こんぴらおおかみ)文字塔。明治26年(1893)建立。石塔型式は自然石。
 
台石の下半分は土中に埋まっているが、正面に「氏子中」(うじこじゅう)の銘が確認できる。

裏面

自然石の石塔

裏面の銘は「明治二十六年九月建立」

不明塔

不明塔

向かって左端の石塔は、上部が欠けていて、何の目的で造立されたものか、わからない。年代も不詳。六文字ほど銘が確認できるが、「八月」以外の文字は、読みとれない。

福禄寿

福禄寿

石塔群の脇に、丸彫りの福禄寿(※7)が置かれている。年代不詳。もともと女帝神社にあったものなのか、氏子の家に祀られていたものをここに置いたのかは、わからない。

※7 福禄寿(ふくろくじゅ)は、七福神の一柱。福(幸福)と禄(財運)と寿(長寿)を司るとされる。

墓塔群