2026年5月12日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは、越谷市向畑(旧向畑村)。観音堂・香取神社をはじめ 7か所27基の石仏や石塔を巡った。

文化財パトロール|概要

文化財パトロール

NPO法人・越谷市郷土研究会では、2005年から毎年、越谷市内の石仏や石塔の現状調査(文化財パトロール)を実施している。今年度(2026年度)は新方地区。新方地区を七つの区域に分け、数名で編成された班ごとに受け持ちの区域を調べた。

向畑の石仏調査

石仏調査

今回、私が配属されたのは向畑地区(旧・向畑村)。調査員は 3人。調査するのは 7箇所。

調査箇所
  1. 路傍の庚申塔
  2. 大黒天像付き墓塔
  3. 向畑十一面観音堂
  4. 三角地帯の石塔群
  5. 北向き地蔵堂
  6. 向畑香取神社
  7. 向畑観音堂
調査開始

午後12時10分。最初の調査地である路傍の庚申塔着。班長の秦野氏が、本日の調査箇所を説明したあと、石仏調査開始。

路傍の庚申塔

文字庚申塔|主銘

畑地の脇(路傍)にある文字庚申塔。石塔型式は山状角柱型。江戸後期・文政13年(1830)造塔。正面の主銘は「庚申塔」
 
台石の正面に「講中」(こうじゅう)と刻まれ、両脇には、寄進者16人の名前が見える。

脇銘

文字庚申塔|脇銘

右側面(向かって左側)の銘は「文政十三庚寅十一月吉日」「武州埼玉郡新方領」「向畑村」「村中□加」
 
左側面(向かって右側)には「津切橋」「根堀橋」「皿沼橋」「台畑橋」「四ヶ所石橋願主」と刻まれている。

移動

文字庚申塔から北へ50メートルほど進む。

大黒天像付き墓塔

大黒天像付き墓塔

大黒天像付き墓塔。石塔型式は駒型。江戸中期・正徳4年(714)造塔。
 
正面の最頂部に梵字「ア」(※1)。その下に大黒天像が浮き彫りされている。中央に戒名(昭光院覚窓貞本信女)、最下部に「霊位」とある。脇銘は「正徳四甲午歳」「十月二十九日」

※1 梵字「ア」は、大日如来を表わす種子(しゅじ)。大黒天を表わす梵字は「マ」

大黒天

大黒天

墓塔に大黒天像が浮き彫りされていることから、江戸時代、この墓塔を建てた家は、「大黒天」を信仰していたことが、うかがわれる。大黒天は、五穀豊穣と財運をもたらす福の神として、古くから人々に親しまれてきた。

備考

「文字庚申塔」と「大黒天付き墓塔」の場所は個人情報保護の観点から伏せた。

向畑十一面観音堂

向畑十一面観音堂

三番目の調査場所は、向畑十一面観音堂。江戸時代、この一帯は、千蔵院と称された真言宗の寺院だった。現在は集会所と墓地になっている。
 
今回の調査地・向畑は、越谷市の北東、古利根川右岸に沿って、下流域に細長く広がっているが、十一面観音堂は、向畑のほぼ中央に位置している。
 
前を通る道路は、平方東京線(埼玉県道・東京都道102号)。古利根川の対岸は松伏町。
 
十一面観音堂では、五基の石仏を調べた。

念仏供養塔

念仏供養塔

江戸後期・天明元年(1781)の念仏供養塔。石塔型式は上部隅丸角型。
 
主銘は「奉称念仏壱億万遍供養塔」。「念仏壱億万遍供養」(ねんぶつ・いちおくまんべん・くよう)とあるので、この石塔は、南無阿弥陀仏を1億万回(※2)唱えたことを記念して建てられたもの。

※2 億万とは仏教などでよく用いられる語で、数がひじょうに多いという意味。
 
左の脇銘は「天明元辛丑 当村願主」、右脇銘は「十月十有五日」「(願主名) 九十六歳」。建立者(願主)は96歳ということだが、当時とすればかなりの高齢。

秩父一番巡拝塔

秩父一番巡拝塔

「秩父一番」の銘がある駒型の巡拝塔。江戸後期・寛政5年(1793)造立。
 
中央の上段に浮き彫りされた観音菩薩立像。下段に願主23人の名前が刻まれている。左の脇銘に「秩父一番」、右の脇銘に「寛政五丑五月吉日」とある。
 
脇銘の「秩父一番」について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「秩父一番とは、秩父観音札所三十四箇所巡り第一番の四萬部寺(しまぶじ)のことであろう」(※3)と述べている。

※3 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「向畑十一面観音堂」p.63.

普門品供養塔

普門品供養塔

普門品供養塔(ふもんぼんくようとう)。江戸後期・文化2年(1805)造立。石塔型式は頭部山状角柱型。
 
正面の最頂部に梵字「サ」。主銘は「普門品供養」。側面の銘は「文化二乙丑年」「清明吉日」。台座には、願主・世ハ人(世話人)13人の名前が刻まれている。
 
梵字「サ」は聖観音(聖観世音菩薩)を示す種子(しゅじ)。普門品(ふもんぼん)とは、法華経(全28品)の第25品にある経典のこと。観音経(かんのんぎょう)とも呼ばれる。普門品供養塔は、観音経(普門品)を一定回数、唱えたことを記念して建てたもの。

逆修供養塔

逆修供養塔

集会所の裏手に板碑型の名号塔が三基並んでいる。左端と真ん中の石塔には「逆修」の文字と、それぞれに「信士」「信女」の文字が刻まれているので、この二基は、夫婦で建てた逆修(ぎゃくしゅ)供養塔。
 
逆修(ぎゃくしゅ)とは、生前に自らの手で供養を行なうこと。
 
秦野秀明氏から「逆修」における「七分全得」(※4)の説明があった。

七分全德(しちぶぜんとく)

死後の追善供養によってもたらされる功徳は、全体の七分の一(七分獲一)であるが、生前に功徳を積むと七分をすべて得られる。[中略]生前に行なう法要は逆修と呼ばれ、没後追善供養に比べて七倍の功徳があるとされる。(※4)

逆修供養塔|信士

夫の逆修供養塔

真ん中の供養塔の主銘は「南無阿弥陀仏為逆修松岩浄宗信士菩提也」。造立は江戸前期・万治元年(1658)。脇銘は、「万治元戊戌年」「十月吉日」「施主名(夫の名前)」「敬白」という文字が読みとれる。
 
戒名に「信士」(しんじ)が付いているので、こちらが夫の逆修供養塔。

逆修供養塔|信女

妻の逆修供養塔

向かって左端の供養塔の主銘は「南無阿弥陀仏為逆修□(※欠損)岩妙宗信女菩提也」。戒名に「信女」(しんにょ)、脇銘に「内義」(ないぎ)とあるので、こちらは妻の逆修供養塔。内義とは妻のこと。
 
造立は夫の逆修供養塔と同じく江戸前期・万治元年(1658)十月。二基とも施主名は夫の名前になっているので、夫が施主となって、自分と妻の逆修供養塔を建てたと思われる。
 
十一面観音堂の調査はこれで終了。

移動

次の調査場所(三角地帯の石塔群)へ向かった。

三角地帯の石塔群