かつて越谷市大沢(現・北越谷二丁目)にあった大沢浅間神社(おおさわ・せんげんじんじゃ)と大沢七つ池のひとつ浅間池跡をたずねた。

大沢浅間神社

上の白黒写真は、大沢浅間神社。今はない。撮影年月は不明だが、昭和30年代と思われる。出典は「越谷市デジタルアーカイブ」(※1)

※1 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 大沢浅間神社

由緒

大沢浅間神社の歴史は古く、平安中期・長元7年(1034)に、当地の住人・深野源三郎が富士山に登拝し、大沢の滝から、五色の光をはなつ影向石(ようごうせき)を持ち帰り、この石をご神体として浅間神社を建てたと伝えられている。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「大澤町」の項に、「浅間社、真蔵院持ち」(※2)とある。「浅間社、真蔵院(しんぞういん)持ち」とは、浅間社(浅間神社)は真蔵院が管理する寺、の意。
 
真蔵院は、かつて日光街道の「大沢宿」において浅間神社の別当(管理を行なう寺院)を務めていた歴史ある修験寺院(山伏の寺)。江戸後期・弘化4年(1847)に、本堂を大沢光明院に売却して衰微した。

※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大澤町」149頁

ご神体の所在

大沢浅間神社は、土地区画整理によって、取り壊されたが、大沢弘法寺の住職が、「大沢浅間神社のご神体は、大沢二丁目・A家の邸内社(ていないしゃ)に祀られています」と、教えてくださった。

浅間神社の故事

※大沢浅間神社(※3)

『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』「浅間神社の故事」(※4)に、往時の浅間神社についての記載がある。以下、引用・抜粋。

浅間神社は7月1日が山開きで、遠来の人たちも訪れ、参拝の列をつくった。前日の6月30日は宵祭り(よいまつり)で、子どもたちが集まり、大にぎわいを見せていた。
 
江戸時代、このあたりは松林が広がり、人里離れたさびしいところと伝えられていたが、大正期に、地元・運送店の店主が、この地を買収して「山正園」という庭園に整備した。
 
大正5年(1916)2月末、婦人とともに山正園を訪れた大町桂月(※5)は、「松並木あり、小亭あり、池あり、丘の上には浅間の祠(ほこら)がある」と、綴っている。

※3 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 大沢浅間神社

※4 『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』大沢地区コミュニティ推進協議会(2018年4月発行)「浅間神社の故事」55頁

※5 大町桂月(おおまちけいげつ)…明治・大正期に活躍した文芸評論家・詩人・随筆家。評論や詩を発表するかたわら紀行文を多く書いた。[明治2年(1869)~大正14年(1925)]

大沢町仙間社騒動

※大沢浅間神社(※6)

大沢は江戸時代、日光街道の宿場町(大沢宿)だったので、無頼の徒(ぶらいのと=無法な振る舞いをする人々)も集まってきた。このためけんかや賭博による事件も多かった。
 
その中のひとつに、大沢浅間神社で起きた事件がある。
 
江戸後期・文化10年(1813)、大沢町の賭博師(博打場の親方)伊之助が(賭博一件で取調中だったにもかかわらず)、子分たちに、大沢浅間神社の社地で賭博を開帳させていた。
 
このとき、賭場あらしにきた下総国小文村(現・茨城県取手市小文間=おもんま)の林蔵ならびに荻島村(現・越谷市荻島地区)の丈助ふたりと、胴元をつとめていた伊之助の子分たちとが、けんかになった。
 
これを聞きつけた伊之助が現場に急行。丈助に深手(ふかで)を負わせ、林蔵を殺害し、林蔵の死がいを浅間神社の林の中に仮埋(かりうめ)した。
 
この一件で、伊之助は死罪、林蔵殺害に加担した者たちは、それぞれ追放・重敲(じゅうたたき)・手鎖(てぐさり)などの刑に処された。
 
この事件は「大沢町仙間社騒動」と呼ばれている。

※6 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 大沢浅間神社

今昔写真|拝殿

大沢浅間神社の今昔(拝殿)

今昔写真|本殿

大沢浅間神社の今昔(本殿)

白黒写真は、昭和30年代に撮影されたと思われる大沢浅間神社(出典は越谷市デジタルアーカイブ)。カラー写真は、2026年6月5日に私が撮影した同じ位置からの風景。
 
当時の面影はまったく残っていない。

ここから先の記事は追って更新

ここから先の内容は現在、写真と記事を精査中。細かい箇所の確認と調整をしたあと追って更新します。しばらくお待ちください。