2022年1月22日。越谷市郷土研究会・史跡めぐりの下見に同行。東武伊勢崎線の大袋駅東口から旧日光街道を南下する途中の道ばたで、勢至菩薩像を先頭に縦列している4基の石仏を視察した。かつてこのあたりには勢至塚があったという歴史もひもとけた。

縦列している4基の石仏

四基の石仏

場所は、ダンロップタイヤ関東・越谷営業所(越谷市大里)と隣家との間にある小さな空き地。勢至菩薩像を先頭に、三猿庚申塔、釈迦如来像、青面金剛像庚申塔が縦に並んでいる。最前列の勢至菩薩像から順番に見ていく。

石塔に刻まれている主銘や脇銘は見にくい箇所が多かった。判読できないものもあった。銘文については越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の現地調査報告「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年8月改定」(越谷市立図書館所蔵)に従った(以下、加藤「桜井地区の石仏」と表記)

勢至菩薩像

勢至菩薩像

勢至菩薩像。江戸中期・元禄11年(1698)造立。石塔型式は舟型。正面に勢至菩薩像が浮き彫りされている。脇銘は「元禄十一寅年」「十一月廿九日」とある(※1a)

※1a 加藤「桜井地区の石仏」45頁・85頁

お勢至様

この勢至菩薩像は、地元では「お勢至様」(おせいしさま)と呼ばれ、「とくに目を患っている人が、目の病を治そうと願(がん)を掛けて石仏の前で拝んだという信仰が見られた」(※1b)という。

※1b 加藤「桜井地区の石仏」85頁

三猿庚申塔

三猿庚申塔

三猿庚申塔。江戸前期・寛文9年(1669)造立。石塔型式は板碑型。正面中央の主銘は「奉造立石仏庚講(※2)衆中拾三人為二世安穏也」。その下に三猿が陽刻されている。脇銘は「寛文九年己酉武州葛飾郡」「□月廿七日□□新方大里村」とある。(※3)
 
青面金剛像などの主尊がなく、三猿だけが浮き彫りされた江戸初期の貴重な庚申塔。三猿だけが浮き彫りされている庚申塔は、越谷市内では、江戸前期・寛文4年(1664)から貞享2年(1685)の20年間に12基ほど見られる。

※2 「庚講」は「かのえこう」と読む。庚申講の意味。

※3 加藤「桜井地区の石仏」41頁・85頁

釈迦如来像

釈迦如来像

釈迦如来像。造立は江戸前期・天和2年(1682)。石塔型式は駒型。正面中央に浮き彫りされた釈迦如来像。脇銘に「天和二壬戌天」「十一月五日」(※4)とある。

※4 加藤「桜井地区の石仏」41頁・85頁

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

江戸後期・寛政2年(1790)の青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。正面に「日月」「青面金剛像」「邪気」「三猿」が浮き彫りされている。左側面に「武州埼玉郡新方領 大里村」の銘と、8人の名前、右側面の脇銘には「寛政二庚戌十一月吉日」と、「願主」の下に、8人の名前が刻まれている。(※5)
 
石塔の状態はかなりいいが、釈迦如来像のすぐうしろに建っているので、残念ながら全容を見ることはできない。
 
加藤「桜井地区の石仏」42頁のスケッチによると、石塔には「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」「三猿」が浮き彫りされている。青面金剛は一面六臂(顔が一つで手が六本)の合掌型。左上手に宝輪、左下手に弓、右上手に三叉鉾、右下手に矢を持っている。

※5 加藤「桜井地区の石仏」42頁・86頁

4基の石仏は別の場所にあった

4基の石仏|勢至塚跡(越谷市大里)

ここに置かれている4基の石仏は、もとは別の場所にあった。
 
『こしがやふるさと散歩(下)』に、「これら(四基の石塔)は、もともと(旧日光)街道の並木の下に風情よく立てられてあったとみられるが、道路整備のとき集められたものであろう」(※6a)とある。加藤「桜井地区の石仏」85頁にも、4基の石仏が置かれていた元の場所が具体的に示されているが、個人情報を含む内容なので該当する文章は割愛。
 
また、かつて「このあたりは鯛の島という下間久里の飛地で、もとは一面の水田地であった」(※6b)という。今は水田地であった当時の面影が残る景色は見あたらない。

※6a 『こしがやふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「大沢稲荷神社と秀蔵院跡」145頁

※6b 『こしがやふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「大沢稲荷神社と秀蔵院跡」144頁

勢至塚の歴史

今回、下見の案内役をつとめた越谷市郷土研究会・秦野秀明氏から「かつてここには勢至塚があった」という話をうかがった。以下、秦野氏の研究成果に基づいた解説(後記)をもとに「勢至塚」の歴史をひもといていく。

勢至の木

江戸中期・元禄16年(1703)、幕府から築城の命を受けた下総国結城(現・茨城県)領主の水野隠岐守勝長は、築城の見分役として、家老の水野織部長福(おさもと)を結城に派遣した。
 
江戸から日光街道を通って結城に向かった長福は、道中、越谷で、この勢至菩薩像を目にしたときの様子を紀行文『結城使行』に記録している。

「大林村に勢至の木(せいしのき)という三つ股の榎(えのき)の大木があり、木の元に勢至菩薩の石仏三体が祀られている。そのいわれが知りたいものである。」(※7)

※7 「広報こしがや」No738号(昭和60年7月1日発行)市史編さんだより(351)「元禄16年の日光道中」9頁(https://www.city.koshigaya.saitama.jp/koho_pdf/1980/0738_S600701.pdf)

この勢至菩薩像は、江戸中期・元禄11年(1698)造立。長福(おさもと)がこの場所を通ったのは、元禄16年(1703)なので、長福が『結城使行』に記した勢至菩薩の石仏は、この勢至菩薩像である可能性が高い。この勢至菩薩像が建立された 5年後に、長福がここを通ったことになる。

勢至の木が描かれている古絵図

増補行程記|勢至えの木の古絵図

画像引用元:国立国会図書館デジタルコレクション「増補行程記」

江戸中期・寛延4年(1751)に発行された、日本橋から盛岡までの道中の風景を絵にした「増補行程記」(越谷・大里村の頁)には、塚の上に榎(えのき)の大木が描かれている。そこには「勢至えの木」(せいしえのき)と書き記されている(※8)。

※8 国立国会図書館デジタルコレクション「増補行程記」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577825)18頁

上の写真の黄色い○印が、塚とエノキの大木。この古絵図から、かつてこの付近(ダンロップタイヤ関東・越谷営業所前の旧日光街道沿い)に、「勢至えの木」と呼ばれたエノキの大木が、塚の上にあったことが分かる。
 
この塚が、勢至塚である。 勢至塚の存在を示す古絵図もある。

勢至塚が描かれている古絵図

日光道中分間延絵図|勢至塚の古絵図

画像引用元:東京国立博物館画像検索

勢至塚の存在を示す古絵図は、江戸後期・文化3年(1806)に江戸幕府の道中奉行所によって編さんされた『五海道其外分間絵図並見取絵図』(日光道中分間延絵図)。上の画像の青い○印。
 
小さくて見にくいが、「大里村」と記された箇所の右下(日光道中沿い)に、「勢至塚」と書かれた塚の上に木が生えている塚の絵が描かれている。(※9)

※9 東京国立博物館画像検索「五海道其外分間絵図並見取絵図」日光道中分間延絵図、本文16(https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0029458)

勢至塚には三基の石仏があった

①『結城使行』元禄16年(1703)
②『増補行程記』寛延4年(1751)
③『五海道其外分間絵図並見取絵図』(日光道中分間延絵図)文化3年(1806)
 
上記の三資料から、かつて、この場所には「勢至塚」と呼ばれる塚があって、塚の上のエノキの下には勢至菩薩像をはじめ 3基の石仏(※10)が祀られていたことが分かる。

※10 水野織部長福(おさもと)が『結城使行』で、ここを通ったのは元禄16年(1703)。そのときにあった 3基の石仏は、勢至菩薩像(元禄11年/1698年)、釈迦如来像(天和2年/1682年)、三猿庚申塔(寛文9年/1669年)と思われる。青面金剛像庚申塔は寛政2年(1790)の造立なので、長福がここを通った時代にはまだなかった。

勢至塚のあった場所

秦野氏は、◇寛延4年(1751)「増補行程記」清水秋全◇文化3年(1806)「日光道中分間延絵図」道中奉行所◇明治九年十月廿二日武蔵国埼玉郡大里村「地引地番図」――を元に勢至塚のあった場所を特定している。(※11)

※11 秦野秀明(2019)「元禄十六年、水野織部長福(おさもと)の見た『勢至菩薩像』」

ダンロップタイヤ関東・越谷営業所

秦野氏によると「勢至塚のあった場所は、現在のダンロップタイヤ関東・越谷営業所の西隣(旧日光街道沿い)」とのこと(上の写真の黄色い●印)。現在、4基の石仏が並んでいる場所から南西30メートルほど先あたりになる。
 
今は、ほとんど人目にふれずにひっそりと縦列している 4基の石仏だが、とくに手前の勢至菩薩像は、その昔、「お勢至さま」と呼ばれ、人々に親しまれた。勢至塚も、日光道中を通る多くの旅人たちの目に止まったことだろう。
 
そんな江戸の昔に思いを馳せると、目の前に勢至塚が見えるような気がする。

以上のように、秦野氏は、勢至塚と、この場所に縦列している四基の石仏について「元禄十六年、水野織部長福(おさもと)の見た『勢至菩薩像』」(2019年発表)で、詳しく論考し、勢至塚があった場所を特定している。一読をおすすめする。
http://koshigayahistory.org/190311_mizuno_seishibosatsu.pdf

今回の取材場所

ダンロップタイヤ関東・越谷営業所

今回紹介した 4基の石仏が縦列している場所(上の写真の右端)は、ダンロップタイヤ関東・越谷営業所(越谷市大里)と、隣家の境のブロック塀脇(旧日光街道沿い)。東武スカイツリーライン・大里の踏切(上の写真の黄色い▼印)から約50メートル。

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会・秦野秀明氏の指導を仰ぎ、原稿の校閲もしていただきました。秦野氏には心からお礼申しあげます。

参考文献

参考文献

『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年8月改定」(越谷市立図書館所蔵)
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
本間清利『増補版・日光街道繁昌記』埼玉新聞社(昭和50年9月25日発行)
「広報こしがや」No738号(昭和60年7月1日発行)市史編さんだより(351)「元禄16年の日光道中」(https://www.city.koshigaya.saitama.jp/koho_pdf/1980/0738_S600701.pdf)
秦野秀明(2019)「元禄十六年、水野織部長福(おさもと)の見た『勢至菩薩像』(http://koshigayahistory.org/190311_mizuno_seishibosatsu.pdf)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)