2024年5月5日。越谷市北越谷(旧大房村)の石仏と石塔を調査した。北越谷駅西口を起点に◇押立堤◇北越谷稲荷神社◇浄光寺…の三箇所をめぐった。
旧大房村の石仏
今回調査したのは北越谷北部(旧大房村)。元荒川が凸状に曲流した左岸沿いに広がる北越谷河畔砂丘(※1)に位置する。
※1 越谷市内には、元荒川の曲流(曲流跡)沿いに、五つの河畔砂丘(かはんさきゅう)があり、今回めぐった北越谷北部は、北越谷河畔砂丘の一画にある。
関連文献
越谷市内の河畔砂丘については、越谷市郷土研究会の秦野秀明氏が、「河川の造った地形―越谷市内の河畔砂丘と自然堤防」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/160228_bgs_hh.pdf
調査箇所
調査したのは次の三箇所
- 押立堤
- 北越谷稲荷神社
- 浄光寺
北越谷駅西口を起点・終点とした。
起点|北越谷駅西口
午後1時。調査開始。北越谷駅西口を出て右へ。東武伊勢崎線の高架下に沿って進む。
移動|東武伊勢崎線高架下
北越谷第四公園を過ぎ、200メートルほど歩くと、前方にY字路が見える。
旧日光街道
Y字路を左に進むと、旧日光街道にぶつかる。
正面前方の道路が旧日光街道。前方左手の森は北越谷第五公園。前方の土手が、最初の調査場所、押立堤(おったてつつみ)
押立堤
押立堤の下を暗渠(あんきょ=ふたをかけた水路)づたいに、20メートほど進むと、左手の土手に、三基の石塔が見えてくる。
三基の石塔
三基の石塔は、向かって右は、道しるべ付き庚申塔、真ん中と左の石塔は、墓塔。二基の墓塔は、今回の調査からは、はずした。
道しるべ付き庚申塔
道しるべ付き庚申塔。石塔型式は山状角型。江戸後期・寛政3年(1791)造塔。正面の主銘は「青面金剛」。その下に、三猿が陽刻されている。
台石には、寄進者名が(20人ほど)刻まれているが、目視ではほとんど確認できない。
左側面
左側面の脇銘は「寛政三辛亥」「五月吉日」「新方領」「大房村」
右側面
右側面は、「左 のじま じおんじ 道」と刻まれていて、道しるべになっている。
「のじま」(野島)は、越谷市野島。「じおんじ」(慈恩寺)は、さいたま市岩槻区慈恩寺。どちらもこの道しるべから左(元荒川上流)に向かって進むと、「野島」と「慈恩寺」に至る。
押立堤と奥州古道
三基の石塔が建っている場所は、押立堤(おったてつつみ)。上の写真、左側の土手道が押立堤。右側の道路は、旧日光街道。押立堤をそのまま進むと、現在は、宮内庁埼玉鴨場の手前で、行き止まりになる。
かつて、押立堤は、奥州(東北地方)との往来に使われた奥州古道の一部であった。押立堤と奥州古道の説明は割愛。根拠とした関連文献を以下に記す。
押立堤|関連文献
押立堤については、越谷市郷土研究会の秦野秀明氏が、「『往古奥州道』と『押立堤』」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/239.pdf
奥州古道|関連文献
奥州古道については、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏が、「江戸時代以前の越谷を通る奥州古道(令和5年8月改訂)」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/230827_ohsyuu_kodoh_k_katoh.pdf
移動|北越谷元荒川堤
三基の石塔をあとに、元荒川左岸の土手道(北越谷元荒川堤)を上流に向かって進む。このあたりの土手道も、かつては、奥州古道の一部だった。
新緑の桜並木
北越谷元荒川堤は、桜並木になっていて、葉桜の緑が、すがすがしい。元荒川では、釣り人の姿も見えた。
出津橋
三基の石塔から北越谷元荒川堤を300メートルほど歩くと、前方右手に出津橋が見えてきた。対岸(出津橋の後方)に文教大学が見える。
北越谷稲荷神社へ
出津橋手前を左折。次の調査地、北越谷稲荷神社へと向かう。