旧大房村の石仏
出津橋手前を左折。最初の十字路を左に曲がると、前方左手に、北越谷稲荷神社(大房稲荷神社)が、見えてくる。
北越谷稲荷神社
二番目の調査地、北越谷稲荷神社(大房稲荷神社)に到着(越谷市北越谷4-12-3)。創建はつまびらかでないが、江戸後期に幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』大房村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、」(※2)とある。
※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大房村」176頁
石塔群
境内右手のブロック塀脇に、境内社をはさんだ左右に、10基の石塔(石祠と石仏)が並んでいる。
石仏
境内社の右手に並んでいる石仏は 7基。
- 二十一仏板碑
- 猿田彦大神文字塔
- 青面金剛像庚申塔
- 青面金剛像庚申塔
- 猿田彦大神文字塔
- 樗宮(おうちのみや)文字塔
- 猿田彦大神文字塔
左から順番に見ていく。
二十一仏板碑
二十一仏板碑。下部をセメントで固定されている。戦国時代・永禄元年(1558)建立。もともとは別の場所にあったが、保存のために、ここに移された。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この二十一仏板碑は「かつては今はなき大房道(おおふさみち)にあった」(※3)という。
※3 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)109頁
大房道は、旧・大房村(現在の北越谷)に昔あった、現在の元荒川の前身である「元・利根川」左岸跡の自然堤防上を経由する道で、越谷市郷土研究会の秦野秀明が解明した。詳細は以下の論考参照。
大房道|関連文献
大房道については、越谷市郷土研究会の秦野秀明氏が、「『往古奥州道』と『押立堤』」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/239.pdf
猿田彦大神文字塔
二十一仏板碑の隣の石塔は、猿田彦大神文字塔。江戸後期・天保15年(1844)建立、明治32年(1899)改刻。石塔型式は兜巾(ときん)型。正面の主銘は「猿田彦太神」
台石には、何か文字が刻まれているようだが、一部しか残っていないので、確認できない。
この文字塔を平成9年(1997)に調査した、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏の現地調査報告には、台石には「大房邨」(おおふさむら)と刻まれていたことが、スケッチとともに記されている(※4)
※4 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)51頁・109頁
左側面|脇銘
左側面の脇銘は「天保十五季甲辰秋九月吉日」
左側面|改刻
その横には、「新調修繕」「明治三拾二年十一月吉日」「寄附人」「東武鉄道請負人」「遠藤君蔵配下一同」「世話人」のほか、四人の名前が刻まれている。
これは、明治32年(1899)、東武伊勢崎線の開通工事のさいに、当時、鉄道敷地の中にあったと思われるこの石塔を、工事を請け負った人たちが、修繕・改刻した旨を刻んで、この場所に移したことを物語っている。
右側面
右側面には「岐太神」(ふなどのおおかみ)と刻まれている。
青面金剛像庚申塔|天保12年
左から三番目は、青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸後期・天保12年(1841)造塔。正面の主尊は青面金剛。
石塔の劣化がはげしい。最頂部の「日月」、中央の「青面金剛像」、最下部の「三猿」は、なんとか確認できる。青面金剛に踏まれているのは「邪鬼」と思われるが、原形を保っていないので、判断不能。
台石に刻まれている文字は解読不能。おそらく寄進者の名前が刻まれていたのだろう。
左側面
左側面の脇銘は「天保十二辛丑年十一月吉日」
右側面
右側面の銘は「天下泰平国□□□」の文字だけ確認できる。おそらく「天下泰平国土安全」というような文字が刻まれていたと思われる。
青面金剛像庚申塔|元禄6年
左から四番目も青面金剛像庚申塔。石塔型式は舟型(最頂部は角ばっている)。江戸中期・元禄6年(1693)造塔。主尊は、三面六臂(さんめんろっぴ=顔が三面、腕が六本)の青面金剛。
中央の彫刻は上から「日月」「青面金剛」「二鶏」「邪鬼」「三猿」
脇銘
向かって右は「奉造立庚申講供養現当□攸」。向かって左は「元禄六癸酉天」「九月吉祥日」「施主敬白」。そのほか、石塔の下部には、施主と寄進者18人の名前が刻まれている。
猿田彦大神文字塔|文政8年
左から五番目の石塔は、猿田彦大神文字塔。石塔型式は山状角型。江戸後期・文政8年(1825)造塔。正面の主銘は「猿田彦大神」
左側面
左側面の脇銘は「文政八乙酉年十一月吉日」
右側面
右側面には「天下泰平村内安全」と刻まれている。
樗宮(おうちのみや)文字塔
左から六番目に、他の石塔より小さい石塔が置かれている。
石塔型式は駒型。江戸後期・嘉永6年(1853)造塔。石塔の下部は欠けているように見える。正面の主銘は「樗宮」(おうちのみや)と刻まれている。
この「樗宮」について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、次のように述べている。
「鳥取市にある樗谿(おうちだに)神社をさすと思われる。遠方の因幡国より(建立者である)会田氏(㑹田氏)によって樗谿神社の信仰が、この地にもたらせたのであろう」(※5)
※5 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)108頁
右側面
右側面の脇銘は「嘉永六癸丑歳十一月吉辰建立」「当町」「㑹田氏」(※6)
※6 㑹田氏(会田氏)…上記、加藤氏の解説にあるこの石塔(樗宮)の建立者
猿田彦大神文字塔|天保15年
樗宮(おうちのみや)文字塔の右手、ブロック塀の脇に置かれている石塔は、猿田彦大神文字塔。下部の右側が欠けてしまっている。台石もない。隣に積まれたブロックに立てかけてある感じだ。
正面の主銘は「猿田彦大神」
左側面
左側面の脇銘は「天保十五季」「甲辰秋九月吉□」
右側面
右側面には「岐大神」(くなどのおおかみ)と刻まれている。
猿田彦大神と岐大神
石塔に刻まれている「猿田彦大神」と「岐大神」について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、次のように述べている。
猿田彦は天孫ニニギノミコトが高天原(たかまがはら)から高千穂(たかちほ)に降臨する時、天界からの分かれ道[中略]にいて出迎え、天孫を道案内したという神。
岐神(くなどのかみ/ふなどのかみ)は、[中略]道の分かれ道に立っていて、種々の災いを退ける神である。「くなど」は「来るな」という意味。
天孫を迎えるために天界からの分かれ道で待っていた猿田彦と、道の分かれ道に立っていてさまざまな災いを退ける岐神の両者が同一視されたのであろう。
神道では、庚申信仰の主尊を猿田彦であるとしている。(※7)
※7 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)107頁
続いて、境内社の左手にある石祠を見ていく。
石祠
境内社の左手には、三基の石祠が並んでいる。
水神宮
向かって左端の石祠に祀られているのは水神。江戸中期・元禄9年(1696)建立。室(むろ)の中は何もない。
左側面
左側面の脇銘は「奉造立水神」「御社如意祈攸」(※8)
※8 「攸」(ゆう)とは「所」の意味。
右側面
右側面には「元禄九丙子天三月卄三日」(卄は二十)「別当 千手院」「願主 黒田勘右門」と刻まれている。
千手院は、かつて大房村(現在の北越谷)にあった寺院で、江戸後期に幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』大房村の項に「千手院 熊野山不動寺と号す、本尊不動を安ず」(※9)とある。
※9 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大房村」176頁
山王宮
真ん中の石祠は「山王宮」(さんのうぐう)。正面に「山王宮」と刻まれている。笠と台石は当時のままだが、塔身は、補修されている。
左側面
左側面には、「文政十三寅年九月建立」「平成十九年十月吉日」「氏子中」「再建」とある。
石祠の建立は、江戸後期・文政13年(1830)で、塔身部分を平成19年(2007)に再建したことがわかる。
台石
台石には、文政13年に建立したときの世話人たちの名前が刻まれている。
弁才天
向かって右端の石祠に祀られているのは弁才天。江戸中期・正徳4年(1714)建立。室(むろ)の中は何もない。
左側面
左側面の脇銘は「辯才天女」「別当大房村」「千手院宥□」
右側面
右側面には「正徳四甲午天」「九月大吉良日」とある。
備考|墓塔
道路側に石塔が四基並んでいるが、これは墓塔なので、調査外とした。
浄光寺へ
北越谷稲荷神社の調査はこれで終了。最後の調査地、浄光寺へ向かう。