越谷市谷中町(やなかちょう)にある観音堂(西福院)の石仏と石塔のほか、境内の風景などを現地で取材した写真とともにお伝えする。また谷中に伝わる観音堂の白馬伝説も採りあげた。谷中観音堂の場所は、草加バイパス(国道4号)宮本五丁目交差点と谷中通りのほぼ中間地点にある。

歴史

谷中の観音堂(西福院跡)

この場所には、江戸時代、林谷山(りんやさん)西福院(せいふくいん)と呼ばれた真言宗の寺院があった。現在、西福院の本堂はない。境内に観音堂が残されていることから、地元では観音堂(谷中の観音堂)と呼ばれている。
 
江戸後期、幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「西福院 新義真言宗、四丁野村迎摂院門徒、林谷山と号す、本尊弥陀を案ず、観音堂」(※1)とある。
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると、西福院は「足立区の西新井大師を一番とする三郡送り大師(※2)の二十二番に相当する」(※3)という。
 
また、加藤氏は「西福院は、地元では現在『せいふくいん』と読まれているが、正しくは『さいふくいん』と呉音で呼ばれていたのであろう。かつての古老の間では『さいふくいん』とも呼んでいた」(※4)と述べている。

※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「谷中村」の項、144頁

※2 三郡送り大師(さんぐんおくりだいし)とは、東京都足立区にある西新井大師を一番札所として、草加市・越谷市・さいたま市・川口市・足立区(南足立郡・北足立郡・南埼玉郡の三郡)を巡って、川口市安行の慈林寺を結願とする札所めぐりのこと。明治時代、盛んに行なわれた。

※3※4 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵、39頁

 
それでは谷中観音堂の石仏と石塔から見ていこう。

石仏と石塔

石仏と石塔は、

風化や劣化のために銘文が読みとれないものもあった。正確を期すために、以下で紹介する石仏・石塔の銘文については「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵「西福院(谷中の観音堂)」の項(6頁、8頁、39-40頁、43頁)と照らし合わせた。

参道の石仏

谷中観音堂|参道入口

参道には、庚申塔をはじめ文字塔や供養塔などが立っている。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

参道入口の向かって左手にあるのは青面金剛像庚申塔。
 
江戸中期・享保3年(1718)造立。石塔型式は駒型。正面に、日月・合掌している青面金剛・邪気・三猿が陽刻されている。脇銘は「奉庚辛供養二世安楽処」「享保三戊歳十一月吉良日」。三猿の両脇に寄進者六人の名前が刻まれている。

なんと手が8本

八臂青面金剛像

庚申塔の青面金剛像は六手(手が六本)が一般的だが、よく見ると、この青面金剛像には手が八本ある。八手の青面金剛像は、越谷市内では珍しい。
 
両手で合掌、右の上手で三叉鉾(さんさぼこ)、中手で矢、下手でショケラ(女人)の髪の毛をつかんでいる。左の上手で法輪、中手で弓、下手で羂索(けんさく=投げ縄)のようなものを持っている。

普門品供養塔

普門品供養塔

参道入口の向かって右手にあるのは普門品供養塔(ふもんぼん・くようとう)。普門品供養塔とは、法華経の観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん=通称・観音経)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。
 
江戸後期・天保11年(1840)造立。石塔型式は兜巾型(ときんがた)。正面の主銘は、最頂部に聖観音を表わす梵字「サ」、その下に「普門品供養」と刻まれている。脇銘は「天下泰平」「国土安穏」。左側面には「天保十一子年八月吉日」とある。
 
台石には寄進者11人の名前が見える。

新四国第廿二番標識

新四国第廿二番標識

右側面を見ると「新四国八拾八ヵ所第廿二番」「谷中村」「西福院」と刻まれた銘が確認できる。谷中村の西福院が新四国八十八箇所霊場の第二十二番の霊場であったことを示している。
 
新四国八十八箇所霊場は新四国四箇領八十八箇所霊場(しんしこく・しかりょう・はちじゅうはっかしょれいじょう)とも呼ばれ、四箇所の領(※5)にある弘法大師蔵を祀った寺院88箇所を巡礼すること。一番札所は東京都足立区にある西新井大師。
 
四箇所の領とは、①淵江領(ふちえりょう)…東京都足立区②葛西領(かさいりょう)…東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区③八条領(はちじょうりょう)…埼玉県八潮市・越谷市・草加市④二郷半領(にごうはんりょう)…埼玉県三郷市・吉川市――のこと。
 
明治時代に盛んに行なわれた「三郡送り大師」は、新四国四箇領八十八箇所霊場を元につくられた。

※5 領とは江戸時代に設けられた領域区分。数ヵ村ごとにまとめた広域行政体のこと。

四国八十八ヶ所巡拝記念碑

四国八十八ヶ所巡拝記念碑

普門品供養塔の隣にあるのは四国八十八ヶ所巡拝記念碑。
 
石塔型式は兜巾(ときん)型。昭和4年(1929)造立。正面の主銘は「弘法大師」「四国御霊場巡拝記念碑」。四国御霊場巡拝は四国八十八ヶ所巡拝と同義。四国にある弘法大師(空海)ゆかりの88か所の寺院を巡ること。
 
側面に「昭和四年四月十六日出発」「五月二十一日帰郷当所」の脇銘と、建立者の名前が刻まれているので、この石塔は、建立者が四国八十八ヶ所巡拝を行なった記念に建てられたことが分かる。七十□□□という銘も確認できるので、建立者が70歳のときに建てたものかもしれない。

馬頭観音文字塔

馬頭観音文字塔

参道の左手、青面金剛像庚申塔の裏手に、大小の馬頭観音文字塔が二基並んでいる。

馬頭観音文字塔|自然石

馬頭観音文字塔|自然石

大きな自然石に「馬頭観世音」と刻まれている馬頭観音文字塔。昭和6年(1931)造立。裏面に「昭和六年三月吉日 建立」とある。

馬頭観音文字塔|石塔

馬頭観音文字塔|石塔

自然石の隣にある小さな馬頭観音文字塔。
 
江戸後期・文政元年(1818)造立。石塔型式は駒型。正面の最頂部に、馬頭観音を表わす梵字「カン」、その下に「馬頭観世音」と主銘が刻まれている。脇銘は「文政元戊寅年」「八月吉祥日」「谷中村」「講中」。最下部に世話人6人の名前が確認できる。