越谷市新川町二丁目(旧・越巻村中新田)の鎮守・中新田稲荷神社(越巻稲荷神社とも呼ばれる)。場所は県民健康福祉村・万葉植物園の裏手(老人福祉センターけやき荘の西北)。創建は江戸時代の前期と伝えられ、地元では、妙観照(みょうかんしょう)の名で親しまれてきた。境内には、一本松と呼ばれる大木の根本に、二基の石仏(庚申塔と天神塔)が建てられている。

歴史

中新田稲荷神社(越巻稲荷神社)

中新田稲荷神社(なかしんでんいなりじんじゃ)は、江戸時代に、この地(越巻村=こしまきむら)の名主を務めた島村家の氏神として創建された。『新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「稲荷社 鎮守にて 元和元年勧進す」とある。元和(げんな)元年(1615)は江戸前期。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。満蔵院は越巻村にあった寺院だが、現在は墓地だけになっている。中新田稲荷神社は満蔵院の別当寺(神社を管理する寺)だった。
 
古くから妙観照(みょうかんしょう)や妙観照稲荷(みょうかんしょういなり)と呼ばれてきたが、「妙観照」の名は、越巻村の本村である七左衛門村の観照院(かんしょういん)から分祀された神社であることに由来する。
 
越巻村は七左衛門村の枝郷(えだごう)だった。枝郷とは、新田開発などで元の村(本郷・元郷)から分かれた新しい集落のこと。神社のある地区は越巻村の中新田と呼ばれていた。

かつて神社の周辺一帯は水田だった。

中新田稲荷神社|全景

昭和55年(1980)4月20日発行の『越谷ふるさと散歩・下』(越谷市史編さん室)中新田稲荷神社の項に「神殿橫手は一面の葦原(あしはら)になっている。最近までは水田のほか蓮根(れんこん)やくわい畑であったが、埼玉県の用地に買収されて、葦の茂るままになっている。いずれ公共施設が設けられる計画になっているようだが、実現のときは、この地域も大きく変わるであろう」とある。
 
買収された土地に、老人福祉センターけやき荘と県民健康福祉村がつくられた。けやき荘の開館は昭和59年(1984)。県民健康福祉村は昭和62年(1987)にオープンした。神社は昔からの場所に鎮座しているが、社殿は平成19年(2007)に再建されている。昭和40年代の写真を見ると、水田地帯の中に神社がポツンと建っている。

境内の風景

鳥居

石造りの鳥居から社殿までは石張りの参道になっている。参道は10メートルほど。鳥居の神額(しんがく)には「稲荷神社」と彫られている。参道の左右に松の大木があり、左手の松の根元には二基の石仏が置かれている。

妙観照の一本松

妙観照の一本松

石仏のそばにある松の巨木は「妙観照の一本松」(みょうかんしょうのいっぽんまつ)と呼ばれ、水田地帯だった時代には、遠くからでもよく見え、神社の目印となっていた。神社周辺は、かつての水田地帯の景観は残っていないが、この一本松だけが、当時の面影を伝えている。

社殿

社殿

石垣で盛土された上に、こぢんまりとした社殿が鎮座している。社殿には神額は付けられていない。社殿の前は、手すりのついた石階段になっている。社殿裏手の森は県民健康福祉村の万葉植物園。

旧・鳥居跡

鳥居跡

上の写真は、社殿から境内を眺めた景色。社殿の前(階段の両脇)に、かつての鳥居の跡が残されている。鳥居の後方に見える建物は老人福祉センターけやき荘。

石仏

庚申塔と天神塔

参道脇に並べられている二基の石仏。左は、「みぎ 大相模ふどうそん こしがやミち」と刻まれた道しるべが付いた青面金剛文字庚申塔。右は菅原荘(すがわらのしょう)と彫られた自然石の天神塔。

青面金剛文字庚申塔

青面金剛文字庚申塔

道しるべ付き青面金剛文字庚申塔の造立は江戸後期・弘化5年(1848)。石塔の型は駒型。(正面)上…雲と日月/中央…青面金剛/右…弘化五年/左…戌申正月(左側面)みぎ 大相模ふどうそん こしがやミち(台石)願主一名、世話人二名の名前が見える。

菅原荘文字塔

菅原荘(すがわらのしょう)文字塔の造立は江戸後期・嘉永3年(1850)。石塔の型は自然石型。正面の中央に「菅原荘」と大きく彫られ、向かって右手に「嘉永三戌九月」、左手に「子供連」(こどもれん)と刻まれている。

「菅原荘」とは何か

『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査)に「『菅原荘』とは、学問の神様、菅公の領地とされる場所を意味するのであろうか。この稲荷神社を寺子屋として子供のころに学んだ人たちによって、この石塔を建立したのであろう。境内には天神社があった。」とある。菅公(かんこう)とは菅原道真の敬称。
 
『越谷市史』第一巻(通史上)第三節 庶民教育「寺子屋の普及とその師匠」の項には、「身分は不明であるが、嘉永三年九月に子供連によってたてられた越巻中新田稲荷社境内の『菅原荘』と刻まれた碑も寺子によるものであろう。」とある。
 
「荘」には「村里」「田舎」「仮のすまい」などの意味があるので、「菅原荘」には「菅公(菅原道真)の学徳を学んだ村里」という意味合いがあるのかもしれない。もしくは、寺子屋の師匠(先生)は村の庄屋なども務めたので、敬意を込めて、師匠を「菅原の荘屋さま」と呼んだのかもしれない。

越巻中新田の産社祭礼帳

越巻中新田の産社祭礼帳ついての案内板

越巻中新田(新川町二丁目)では、江戸前期・承応3年(1654)から産社(おびしゃ)と呼ばれる祭礼が行なわれているが、祭りの収支や村の出来事・世の中のありさまなどを記録した年番帳が、360年以上にわたって書きつがれている。
 
『越谷市史・通史上』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)産社祭礼帳の項に「元文二年 中新田稲荷鳥居立」「宝暦四年 稲荷鳥居十八年目ニシテ立直ス」と、鳥居の建立と建て直しについての記述が見られる。
 
「古民家だより」越谷市教育委員会生涯学習課(平成31年3月5日)には「寛政3年(1791)夏は大旱(おおひでり)。秋には大風雨で作物は水腐れになった。お代官様のお慈悲で年貢はなしになった。」「明和2年(1765)4月、日光権現様(徳川家康)150年忌のご法要があり、道路整備などのために、作業員4人と馬2頭を出すように命じられた。」などの記録が紹介されている。
 
この年番帳は『越巻中新田の産社祭礼帳』(こしまきなかしんでんのおびしゃさいれいちょう)の名で、越谷市の有形文化財歴史資料に指定されている。

越巻村の稲荷神社

越巻村は、中新田(なかしんでん)丸ノ内(まるのうち)雨足(うたり)という三つの組に分かれていた。中新田稲荷神社は、中新田と雨足の鎮守で、丸の内(現在の新川町一丁目)には丸の内稲荷神社という鎮守社があった。丸の内稲荷神社については別記事を参照されたい。

参拝情報

中新田稲荷神社(越巻稲荷神社)

住所は埼玉県越谷市新川町2-66( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし しんかわちょう」。郵便番号は 343-0852 。公共交通機関でのアクセスは越谷駅西口発「県民健康福祉村」行きのバス(タローズバス)に乗って「けやき荘前」で下車してすぐ。車の場合は県民健康福祉村(越谷市北後谷82)の駐車場を利用。トイレは社殿に向かって右手に県民健康福祉村のトイレがある。