越谷市の西端に位置する新川町(しんかわちょう)。綾瀬川の左岸に位置し、綾瀬川を挟んで川口市と接している。以前は越巻村(こしまきむら)と呼ばれた。町を北と南に二分するように武蔵野線が東西を通り、武蔵野線と交差する形で、町の中央を蒲生岩槻線(埼玉県道324号)に沿って新川(古綾瀬川)が流れている。新川沿いの路傍には、古くから「どうりゅう様」と呼ばれる大雄山碑石や馬頭観音供養塔などの石仏が点在している。

雨降山碑石・大雄山碑石

自然石の石塔

武蔵野線のガード下をくぐって、蒲生岩槻線(埼玉県道324号)を新川右岸に沿って 400メートルほど進むと、道が二股に分かれるが、突き当たりの三角地帯に、自然石の石塔が三基祀られている。住所でいうと越谷市新川町一丁目399東。石塔の隣に立てられている「島村酒店」の看板が目印。

雨降山碑石と大雄山碑石

石塔の右端は、嘉永4年(1851)の「雨降山」碑石(あぶりさんひせき)。真ん中と、左端の小さな祠に安置されている二基の石塔は、「大雄山」碑石(だいゆうざんひせき)。それぞれ自然石に「雨降山寫碑」「大雄山寫碑」と刻まれている。

雨降山碑石

雨降山写碑

雨降山碑石の造立は、江戸後期・嘉永4年(1851)。石塔の型式は自然石。正面に「雨降山寫碑」(あぶりさんうつしひ)と大きく刻まれている。裏面には「嘉永四龍集辛亥六月 島村定蔵尼消敬白」とある。
 
雨降山とは、神奈川県の丹沢山地にある大山(おおやま)の別名。大山不動の名で知られる大山寺(おおやまでら)がある。山号は雨降山(あぶりさん)。寺号は雨降山大山寺。本尊は不動明王。関東三大不動のひとつに数えられ、江戸時代には、庶民がこぞって「大山詣り」(おおやまいり)を行なった。雨降山(大山)は、雨乞いの神としても崇められ、日照りが続くと、関東各地の農村では、代参者を送って雨乞い祈願をした。

寫碑とは

「雨降山寫碑」「大雄山寫碑」の「寫碑」(うつしひ)の意味はよく分からない。「寫」は「写」の旧字体。「うつす」「複製をつくる」という意味があるので、大元のご神体を碑面に写して(新たな)ご神体とする、ということのようだが、あくまでも個人的な臆測にすぎない。

越谷市郷土研究会の加登幸一氏によると「『写』とは、現地の大雄山に赴き、『雨降山』や『大雄山』と文刻まれた石碑の文字を拓本して、採取した和紙を自宅に持ち帰り、新たに石塔の碑面に写し刻んだものと思うが、あくまでも推測である」という。
 
また「大雄山そばの方々にこの仮説についてのご意見をお聞きしたい。現地におもむき、この仮設が正しいか調査する必要がある。または、ご存じの方からの意見を伺うのが真実をつかむ近道かと思う」とも述べている。

したがって、ここでは、寫碑の意味についての明確な答は出さずに、加藤氏の仮説を紹介するにとどめ、今後の調査や論考を待ちたい。
 
また、「寫碑」について、ご存じの方がいらっしゃいましたら、お手数ですが、本ブログの「 お問い合わせフォーム 」からご一報いただけると、助かります。

大雄山碑石

大雄山碑石

中央の石は大雄山碑石(だいゆうざんひせき)。造立年代は不詳。正面に「大雄山寫碑」(だいゆうざんうつしひ)と刻まれている。大雄山とは、神奈川県南足柄市にある曹洞宗の寺院・最乗寺(さいじょうじ)のこと。大雄山は山号。正式名(寺号)が大雄山最乗寺。
 
寺の創建に貢献した道了(どうりょう)という僧が、寺の完成と同時に天狗となって身を隠したという言い伝え(天狗伝説)から、最乗寺は、道了様(どうりょうさま)とか道了尊(どうりょうそん)とも呼ばれている。

大雄山写碑

左端のお堂の中に安置されているのも大雄山碑石。年代は不詳。碑面に「大雄山寫碑」と刻まれている。

かつてこの石碑の北側を古綾瀬川が流れていた

この大雄山の石碑の北側に、かつては古綾瀬川が流れていたと思われる。石碑のそばの家には「家の裏に川が流れていた」との言い伝えも残っている。つまり、古綾瀬川は、この場所から西北西に300メートルいったあたりの五才川と綾瀬川とが合流する地点から、この大雄山の石碑の北側を通って、現在の新川につながっていたのであろう。新川はこの流路に初めから流れていた「古綾瀬川」を使って作られた悪水落とし(排水路)である。江戸時代は、現在の綾瀬川は「新綾瀬川」とも呼ばれた。

どうりゅうさま

ここに並んでいる大雄山碑石は、古くから「どうりゅうさま」と呼ばれ、災難よけの神様として、親しまれてきた。「どうりゅう」は、「どうりょう」(道了)が越巻村の地元で訛(なま)ったもの。
 
なまった理由は、群馬県太田市金山の大光院の子育て呑龍(どんりゅう)が有名であるが、越谷市の平方にも呑竜ゆかりの寺院・林西寺(りんさいじ)があり、隣の春日部市一ノ割にも圓福寺(えんぷくじ)がある。大雄山の道了(どうりょう)が越谷・春日部でよく耳にする呑龍様の影響で「どうりゅう」さまになったのではないだろうか。

どうりゅう様伝説

『越谷市の史跡と傳説』越谷市教育委員会・越谷市文化財調査員会(昭和35年4月15日発行)出羽地区の項に、この大雄山碑石のいわれが、昔話として掲載されている。以下引用(抜粋)

近くに一軒の酒屋があった。この酒屋は七人の家族で幸福に暮らしていた。主人はなかなか人がよく近所の人々から尊敬されていた。この主人は大雄山にあるどうりゅう寺という寺を大変熱心に信仰していた。何かよいことがあると、どうりゅう様のおかげだと信じこんでいた。ところがどうしたことか、主人はある時、その信仰をぴったりやめてしまった。ところがその後というものは、一家は災難つづきで家族の者が病に倒れ、主人一人になってしまった。主人は、どうりゅう様を思い出し、大雄山に行き、寺の石を持ち帰り、大雄山碑石という字をきざみ祀った。その後というものは悪いことが起こらなくなったので、それを聞いた近所の人達までが、どうりゅう様を有難がって、病気をしたり、けがをしたりすると、どうりゅう様にお参りするようになった。

こうした言い伝えが残っていることは、旧・越巻村(現在の新川町)では、どうりゅう様(どうりょう様)に対する信仰が盛んだったことを裏付けるものといえよう。

馬頭観音供養塔

馬頭観音供養塔が安置されている祠

どうりゅう様をあとに、新川左岸脇の小道を上流(武蔵野線の高架)に向かって 30メートルほど歩くと、左手にある畑の一角に小さな木の祠が見える。住所でいうと、越谷市新川町二丁目306西。祠の中には、二基の馬頭観音(ばとうかんのん)供養塔が安置されている。

馬頭観音供養塔

馬頭観音は、江戸中期以降、農耕や運搬などで馬を使役する人々によって信仰され、馬の供養や往来の安全を願って、路傍や馬捨場などに供養塔が建てられるようになった。「馬頭観世音」など文字だけを刻んだものと、馬頭観音の彫像が彫られているものがある。

『越谷ふるさと散歩・下』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)の綾瀬川通り出羽地区の項にも「おそらくここはもと死馬の捨て場所だった所だろう」とあるように、この祠があるあたりは、かつては馬捨て場だったと思われるが、ここは村はずれではないので村の共同の馬捨て場ではなく、個人宅の馬捨て場であろう。そのそばに個人宅で見られるような馬頭観音信仰のために造立された「馬頭尊」と刻まれた文字塔もある。

祠に安置されている二基の馬頭観音供養塔

「馬頭観世音」文字塔

祠の中、向かって右側は、「馬頭観世音」文字塔。石塔型式は駒型。正面に「馬頭観世音」「馬頭観世音」とふたつ並んで主銘が刻まれている。向かって右の脇銘は「文久三亥正月廿三日」、左の脇銘は「慶応元丑五月十八日」。文久・慶応はともに江戸末期。文久3年は1863年、慶応元年は1865年。石塔の右側面には「越巻村 施主」とあり、施主名も刻まれているが、風化が進んでいて、解読は困難。

「馬頭観世音菩薩」文字塔

向かって左側は「馬頭観世音菩薩」文字塔。石塔型式は駒型。江戸後期・文化6年(1809)造立。正面に主銘「馬頭観世音菩薩」と刻まれ、脇銘に「文化六巳天」「願主 嶋村内」とある。

「馬頭尊」文字塔

石塔の脇銘

祠の横に、倒れた石塔が置かれている。碑文に「明治四十年九月」「施主 嶋村勝太郎」とある。

「馬頭尊」文字塔

石塔を表面にしてみると「馬頭尊」(ばとうそん)と文字が刻まれている。『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)馬頭観音の項にある「(主銘)馬頭尊(脇銘)施主 島村勝太郎(年号)明治四十年九月(所在地)越巻一二三七路傍」は、この石塔だろう。かつては祠のそばに建てられていたものが、倒れたか、倒されたかして、ここにそのまま置かれていると思われる。

「金杉霊神・大弁才天」文字塔

七左衛門通り(新川町一丁目付近)

馬頭観音供養塔をあとに、新川左岸沿いの道を下流に向かって歩く。武蔵野線のガード下をくぐって100メートルほど進むと七左衛門通りにぶつかる。右手に、蒲生岩槻線(県道324号)と七左衛門通りが交差する地点に新川をまだく新川橋が架けられている。道を左折。七左衛門通りを30メートルほど歩くと、左手の路傍に、小さな覆屋(おおいや)に安置されている石仏が見える。住所でいうと越谷市新川町一丁目336角地。

金杦霊神と大辨才天

「金杉霊神・大弁才天」文字塔

主銘に「金杦霊神」(かなすぎれいじん)「大辨才天」(だいべんざいてん)と彫られ、脇銘に「嘉永七年」「寅六月十四日」とある。金杦霊神の「杦」は「杉」の異体字。大辨才天の「辨」は「弁」の旧字体。金杦霊神とは何か。金杦霊神と大辨才天についての解説が、『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)にある。以下引用(抜粋)

金杉霊神は、亡くなられた金杉氏の神道系の名前である。仏教の戒名にあたる。霊神とは、一般に霊験あらたかな神という意味で、ここでは、亡くなられた人の神号「金杉」の下に「霊神」の語が付けられ、神として敬ったものであろう。また、大弁才天とは、弁天様のことである。この石塔のそばには、かつて道に面して池があったという。そこに弁天様が祀られていたのであろう。

この石塔は二代目

文字塔

それにしてもこの文字塔はかなり新しい。嘉永7年(1854)は江戸後期なので、この石塔は嘉永7年に建てられたものではなく、最近、造立されたものらしい。『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)に「(以前の)石塔は、平成18年(2006)年に観照院の無縁仏墓所に移された。その代わりとしてこの角地路傍に新たに設置された。」とある。
 
以前の石塔は、破損がひどかったか、風化が進んできたので、観照院(かんしょういん)の境内に移されたようだ。この石塔は二代目にあたる。観照院は、この場所から武蔵野線のガード下をくぐって、七左衛門通りを800メートルほど進んだ場所にある。住所は越谷市七左町7-278 。観照院に向かう。

観照院に移された「金杉霊神・大弁才天」文字塔

観照院(越谷市七左町)

無縁仏墓所は観照院の本堂に向かって左手にある。

無縁仏墓所

墓所には無縁仏が150基以上安置されている。この中から「金杉霊神・大弁才天」文字塔を探し出すのは至難の業だが、『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)に「うしろから五列目、向かって左から三番目に移された」とあるので、その場所に行ってみた。

旧「金杉霊神・大弁才天」文字塔

すると、大きな石碑の間に小さな石塔が置かれている。風化はかなり進んでいるが「辯才」「六月十四」などの文字が確認できる。どうやらこれがそうらしい。

旧「金杉霊神・大弁才天」文字塔

逆の方向から覗いてみた。「嘉永七」「杦霊」「辯才」の文字が確認できる。移された、旧「金杦霊神・大辯才天」文字塔に間違いない。

観照院の無縁仏墓所

風化が進んで、かなり劣化しているものの取り壊されずにこの場所に移されて、初代の「金杉霊神・大弁才天」文字塔も喜んでいるかにみえる。車の排気ガスを浴びながらあの場所に置かれているよりも、観照院の無縁仏墓所で静かに余生を過ごせてよかったのではないか。なにはともあれ廃棄されずにすんでよかったと思う。

参考文献

参考文献

石碑や石仏の碑面に書かれた銘文は、風化が進んで、読みにくいものもかなりある。判読が困難な主銘や脇銘などについては、『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)および『平成15年度調査 出羽地区の石仏』加藤幸一(平成28年4月改訂)を参照した。

謝辞

本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。