越谷市新川町二丁目(旧・越巻村中新田)にある越巻薬師堂(こしまきやくしどう)。場所は県民健康福祉村の東南200メートル、出羽公園の西北250メートルに位置する。江戸中期・正徳三年(1714)の建立を伝え、墓地と隣り合わせた境内地には、巡礼供養塔や俳諧の師とみられる薫休居士(くんきゅうこじ)の句碑などがある。

歴史

越巻薬師堂

創建は18世紀初頭(1714年)。『新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「薬師堂 正徳三年の建立にて、満蔵院の持なり」とある。正徳(しょうとく)は江戸前期。満蔵院(まんぞういん)が管理していた。満蔵院は越巻村にあった寺院だが、現在は墓地だけになっている。薬師堂の由来として、「村人が薬師様を背負ってきて安置した」という言い伝えが残っている。

境内の風景

境内

境内地の前は墓地になっている。規模はそれほど大きくない。境内の入口には廻国供養塔、墓地の一画には地蔵菩薩像や阿弥陀如来像などが並んでいて、お堂の前方には句碑が建てられている。
 
『越谷ふるさと散歩・下』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)越巻薬師堂の項に「『おはかのなかであそぶとおそろしいたたりがあるぞ』と記された立札が立てかけられている」とある。昔は、観音堂が子どもたちのかっこうの遊び場になっていたらしい。

廻国供養塔

廻国供養塔

境内の入口(塀際)に、明治19年(1886)造立の廻国供養塔がある。西国(さいごく)坂東(ばんどう)秩父(ちちぶ)100か所の観音霊場と、四国にある弘法大師(空海)ゆかりの88か所の霊場を巡拝した記念に建てた供養塔である。
 
石塔の型式は隅丸角柱型。正面の上部に如意輪観音と弘法大師の座像が彫られ、その下に横書きで「百番四國」、下部に「供養塔」「願主 良恵尼」と刻まれている。左側面には「明治十年九月」、右側面には「能登國箱井郡三ッ谷村産」「智山良恵尼上座」「明治拾九年七月十五日」とある。
 
碑文の「百番四国」(ひゃくばんしこく)について、『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)に、「『百番』とは、坂東三十三箇所・西国三十三箇所・秩父三十四箇所の観音霊場をさし、『四国』とは、四国八十八箇所の弘法大師霊場をさすと思われる。つまり合計壱百八十八箇所の巡礼地をさしている。」と書かれている。

石仏|地蔵菩薩と阿弥陀如来

地蔵菩薩像と阿弥陀如来像

墓地の一画に石仏が三基並んでいる。上の写真の左端は阿弥陀如来。江戸中期・延享5年(1748)造立。上部に阿弥陀如来を表わす種子(しゅじ=梵字)のキリーク。中央に阿弥陀如来立像。右に「奉造立无量寿佛為上求菩提下化衆生也」、左に「□享五戌辰天二月吉日 四町野村法師西雲」とある。「无量寿佛」(むりょうじゅぶつ)とは阿弥陀仏の異名。无(む)は「無」と同意。無量寿佛。
 
真ん中の石仏も阿弥陀如来。江戸前期・寛文4年(1664)造立。上部に、阿弥陀三尊を表わす種子(梵字)サ・キリーク・サクが彫られている。「サ」は観世音菩薩、「キリーク」は阿弥陀如来、「サク」は勢至菩薩。中央に阿弥陀如来立像。右に「南無阿弥陀佛施主十五人」、左に「寛文四辰天十一月吉日」とある。
 
右端は地蔵菩薩像。江戸中期・正徳4年(1814)造立。上部に地蔵菩薩を意味する種子(梵字)の「カ」。中央に地蔵菩薩立像。右に「奉造立地蔵菩薩像二世安楽攸施主」、左に「正徳四甲午天十月吉祥日 敬白長右ヱ門」とある。台石にぎっしり名前が刻まれているが風化がはげしく解読不能。

御手洗石

御手洗石

正面に大きく「奉納」と彫られた御手洗石(みたらいいし)。左側面に「文政十一戌子五月廿八日」とあり、戒名と俗名が彫られている。文政は江戸後期。文政11年は1829年。右側面には「天保七申午四月吉日」と「願主・建立者」の氏名が刻まれている。天保は江戸後期。天保7年は1836年。先祖供養の御手洗石は珍しい。

お堂

お堂

瓦葺きのお堂。現在は集会所も兼ねている。お堂の左隅に小型の釣り鐘が見える。火災や災害を知らせる半鐘だうろか。

半鐘

半鐘

『越谷市史・資料編二』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)中新田産社祭礼帳(※)の項に、江戸後期・享和4年(1804)に、村人たちが薬師堂に半鐘を建立した記録が記されている。「享和四年四月八日薬師堂半鐘建立、代金壱両弐分余」。当時(江戸後期)の1両2分は現在の価格に換算すると約10万円。薬師堂の本堂に吊るされているこの鐘は、享和4年(1804)に建立された半鐘と思われる。

満蔵院墓地にも薬師堂と同じような半鐘が鉄塔に吊るされている。中新田産社祭礼帳には「享和四年五月 万蔵院に半鐘建立」とも記されているので、満蔵院墓地の半鐘も享和4年(1804)に越巻の村人たちが建立したものだろう。

※中新田産社祭礼帳(なかしんでんおびしゃさいれいちょう)とは、越巻(現・新川町)に残されている祭礼(産社祭礼=おびしゃさいれい)の記録帳。当時の村の出来事なども記されている。

参詣巡拝記念額

参詣巡拝記念額

お堂の軒先に「月山・湯殿山・羽黒山・坂東・秩父・西国」と書かれた木製の扁額が飾られている。出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)と西国・秩父・坂東の観音霊場を参詣巡拝を記念して奉納されたものらしい。額の下部に、参詣巡拝者(七左衛門村・西新井村)と世話人の名前がみえる。

薫休居士の句碑

句碑

お堂の前方に、江戸末期・元治元年(1884)建立の句碑がある。俳句の師である薫休居士(くんきゅうこじ)の徳をたたえて、門下生が建てたもの。表面には師の遺稿、裏面には、師とゆかりの深い門下生9人の俳句と、筆子(ふでこ=弟子)120人の名前が刻まれている。薫休居士は、俳句の師だけではなく寺子屋の師匠も務めていたのであろう。

表面|薫休居士の遺稿

句碑|薫休居士の遺稿

表面の金石文「遺稿 砧うつ 里の遠さや 花曇 薫休居士」。「砧うつ 里の遠さや 花曇」という薫休居士の遺稿が刻まれている。砧(きぬた)とは、布地をやわらかくするめために使う木槌(きづち)のこと。または木づちで布を打つ音のこと。木づちで布地を打つことを砧打ちと言った。

裏面|門下生の句

句碑|門生の句

裏面には門下生の句と弟子の名前が刻まれているが、碑文については、『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)および『越谷市史・通史上』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)~第九章 越谷の文化 葛飾蕉門と越谷~を参照した。以下引用。

恩師の大祥忌に堂へ遺稿の一碑を供養して一燈の香花を備んとす門生の人々また多かりし中にとり分因ミふかきものゝ追悼ハ魂を迎ハんため抽て爰に記すものなり
 
花にたゝたりなき物ハ日藪かな 其真
誰が道をつけるともなし花野原 孝保
あきの雨覚束なくぞ暮にけり  松香
川超へて行かけ薄し秋の帳   坂翠
岩山の裾に綺麗な清水哉    米算
草むらや竹の中からさく菖蒲  亀甲
月落て道うしなひぬ時雨空   六山
菜の花や野守の惠の夕日和   魚定
此霧や何處にいまして竜田姫  專酔
 
元治記念甲子初夏
 
名耕書
 
六丁石工吉田右近源朝保

下段には筆子(弟子)120人の名前が刻まれている。薫休居士を師とした越巻村の俳句連が盛んだったことがうかがわれる。
 
句を寄せている9人の門生について、『越谷市史・通史上』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)~第九章 越谷の文化 葛飾蕉門と越谷~に「句を載せているのはいずれも近隣の村人で、その世話役には越巻村佐藤の名倉忠兵衛(号は孝保)がなっている…」とあり、9人の氏名・俳句・俳号も記されている。

越谷市の句碑

越谷市では、幕末から明治初年にかけての句碑が30基ほど確認されている。観照院の観照院句碑、西新井西教院の白扇句碑、袋山久伊豆神社の細沼廉陰句碑、越ヶ谷久伊豆神社の越谷吾山句碑……など。越巻村のほかにも七左衛門村や袋山・蒲生など各地に俳句連があった。越谷は俳諧や歌などの文化が盛んだった。

参拝情報

越巻薬師堂(越巻中新田薬師堂)

越巻薬師堂(越巻中新田薬師堂)

住所は埼玉県越谷市新川町2-202( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし しんかわちょう」。郵便番号は 343-0852 。公共交通機関でのアクセスは、越谷駅西口発「県民健康福祉村」行きのバス(タローズバス)に乗って「県民健康福祉村入口」で下車。徒歩約8分(約600メートル)。墓地の隣(塀の横)に車1台分が駐められるスペースがある。トイレはない。