越谷市宮本町二丁目の宮子通りと四丁野通りが交差する北西の角にある稲荷神社。創建は不詳だが、江戸後期に編纂された『日光道中分間延絵図』(にっこうどうちゅうぶんけんのべえず)や『新編武蔵風土記稿』にその名がみえる。ご神木に触れると疣(いぼ)が治るとされ、地元では疣稲荷(いぼいなり)と呼ばれてきた。境内には、庚申塔や午頭天王(ごずてんのう)文字塔などの石仏が置かれている。

疣稲荷|歴史と社名の由来

疣稲荷|越谷市宮本町

かつてこの地は、四丁野村(しちょうのむら)と呼ばれ、押切組(おっきりぐみ)御縄先組(おなさきぐみ)野尻組(のじりぐみ)の三組に分かれていた。この稲荷神社は御縄先組が管理していた。(今は伐採されてしまったが)ご神木の表皮をなでてイボをさすると不思議に治った、という人が多く、いつしか「いぼ稲荷」と呼ばれ、イボが取れた人はお礼に油揚げを供えた。

いぼ稲荷の言い伝え

いぼ稲荷の言い伝えについて「埼玉日報」(埼玉県立図書館蔵)で、昭和30年代に書かれた「納涼・越谷夜話~出羽の疣稲荷~」という記事がある。以下引用(抜粋)

疣稲荷のご利益はおよそ疣と名のつくものなら何でも取れる。何でも落ちるといわれている。社の裏手に古木がある。疣で難渋する人々は神社を参詣してからこの古木に触り、さらにこの手で自分の疣に触れる。すると不思議なことに疣は痛くもかゆくもなく、いつのまにか自然に取れる。そういう言い伝えである。油揚げを一枚あげる。これは治ったときのお礼の印で、その油揚げは森に住んでいる狐が食う――そういう話である。

ご神木の歴史

切り株

ご神木は栴檀(せんだん)のようだが橙(だいだい)だったという説もある。越谷市郷土研究会会報『古志賀谷』第16号(平成23年12月刊)に、谷岡隆夫氏の「いぼ稲荷といぼの木」という調査報告が載っている。
 
その中で「このいぼ稲荷の木は、ご神木の栴檀です。今の栴檀の木は二代目です。本殿に向かい左側に初代の栴檀の木がありましたが枯れてしまいました。現在、切り株が残っています。(※)」「ご神木が橙との説がありますが、初代の栴檀のさらに以前、橙の木が枯れて栴檀に変わったのでしょうか。」とある。(※)上の写真の右下(神殿の斜め後ろ)に見えるのが初代ご神木の切り株。
 
また、谷岡氏が地元の古老から聞いた話として、「昭和58年(1983)本殿改築のさい、栴檀二本をいぼ稲荷の左右に、一本を宮本小学校の校庭へ地域の結びつきを深める目的で寄贈しました。」という逸話も紹介されている。

宮本小学校に寄贈された栴檀は今も健在

栴檀|宮本小学校の校庭

このときに神社に寄贈された二代目となる二本のご神木(栴檀の木)は、残念ながら伐採されてしまって今はもうないが(鳥居の両脇に切り株だけが残っている)、宮本小学校に寄贈されたセンダンの木は今も健在(上の写真)。立派な木に育っている。

境内の風景

境内

道路(四丁野通り)から鳥居までは15メートルほど。敷地はフェンスで囲まれている。鳥居に向かう小路の右手に御大典記念碑、左手に石祠(榛名神社)がある。

御大典記念碑

御大典記念碑

御大典記念碑。御大典(ごたいてん)とは即位の礼のこと。昭和天皇の即位(昭和の御大典)を記念して建立された。碑文には「御大典記念路」とある。この記念碑は、元々は別の場所にあった。『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改定)に「元は草加パイパスそばの現在の宮四ふれあい公園の地にあった。出羽小学校に通じる道が昭和32年ごろの土地改良で直線道路「四丁野道」になったさいにここに移されたもの」とある。

石祠|榛名神社

石祠|榛名神社

「紀元二千六百年記念」と彫られた竿の上に石祠が載っている。御神体は榛名神社。榛名神社は、群馬県高崎市にある榛名山の神を祀る神社。主祭神は火の神・火産霊命(かぐつちのみこと)と土の神・埴山姫命(はにやまひめのみこと)

ご神木の切り株

神木の切り株|参道左

神木の切り株|参道右

鳥居前の左右には二代目ご神木(センダンの木)の切り株が残っている。伐採される前はかなりの大木で、神社の目印にもなっていた。
 

切り株

伐採されたご神木の一部が境内の隅(フェンス脇)に置かれている。

鳥居

鳥居

色鮮やかな両部鳥居(りょうぶどりい)。木の扁額には「正一位疣稲荷大明神」と書かれている。

神域

神域

鳥居を過ぎると参道の両脇に石灯籠、右手に石仏と石塔などが置かれている。

神殿

神殿

神殿は銅板葺屋根格子戸造り。こぢんまりとしている。昭和58年(1983)に改築された。社殿の隣の木は松。社殿に向かって左横(フェンスの前)に初代ご神木の切り株が見える。

石仏

参道の右手に並んでいる三基の石仏。右端は、江戸後期・寛政6年(1794)の「青面金剛」文字庚申塔。真ん中は、江戸後期・天明4年(1784)の青面金剛像庚申塔。いぼ稲荷の庚申塔については別記事(越谷市宮本町(旧・四町野村)の庚申塔)を参照されたい。

牛頭天王文字塔

牛頭天王文字塔

青面金剛像庚申塔の隣にある祠型の石仏は「牛頭天王」(ごずてんのう)文字塔。造立は江戸後期・天保11年(1840)。正面に「午頭天王」と刻まれ、右側面に「天保十一庚子年 正月吉日」とある。牛頭天王とは八坂神社の祭神。越谷市には他にも「牛頭天王宮」「午頭天皇神」「牛頭天」と刻まれた文字塔が数基現存している。
 
『日本石仏事典(第二版)』庚申懇話会編(昭和55年10月20日発行)牛頭天王の項に「石像はきわめてまれである。文字のものでは、埼玉県越谷市には『牛頭天王宮』『牛頭天王神』『牛頭天王』『牛頭天』主銘の石祠が見られる。」と記されていることから、この牛頭天王文字塔は、全国的にみても貴重な歴史資料といえる。

伊勢太

石塔の下部に横書きで「伊勢太」(いせだい)と彫られている。伊勢太とは、伊勢太太講(いせだいだいこう)のこと。伊勢講(いせこう)とも呼ばれる。伊勢神宮を信仰する人々の互助会組織(講=こう)。全員で旅行資金を積み立て、毎年、順番またはくじ引きなどによって数名を選び、選ばれたものが積立金で参拝し、伊勢神宮のお札をいただいて全員に配った。

石塔

石塔

午頭天王文字塔の横に、小さな石塔と、力石のような卵形の石を溶岩で固めたものが置かれている。小さな石塔には文字が刻まれているか風化が進んでいて判読できない。「奉」「敷石」「七月吉日」などの文字が確認できるので敷石供養塔かもしれない。溶岩で固めた卵形の石にも文字らしきものが見えるが解読不能。

弘誓寺跡|神社裏手

弘誓寺跡|墓地

疣稲荷(本殿)裏手は墓地になっている。江戸時代、この場所は、弘誓寺(ぐぜいじ)と呼ばれた寺院だった。明治4年(1871)に廃寺。『新編武蔵風土記稿』四町野村の項に「弘誓寺 同宗、瓦曽根村照蓮院門徒、清龍山観音院と号す、文禄三年中興開山尊清再建せり、本尊千手観音を安ず、稲荷社」とある。瓦曽根にある照蓮院の末寺であったこと、疣稲荷は弘誓寺の持ち分であったことがわかる。

追記|初午の祭

疣稲荷では、毎年、二月最初の午(うま)の日(=初午)に、氏子である宮本町(旧四丁野村御縄先組)の方々が、神社を守り、初午の祭を行なっている。

2022年2月10日。小雪が舞う中、疣稲荷では初午の祭が行なわれた。その様子を越谷市議会議員の大野保司氏が、自身の Facebook で写真とともに紹介している。大野氏によると「祭りを守る皆さんに伺うと、初午の日に雪が降ったのは記憶にない」とのことである。

参拝情報

疣稲荷|越谷市宮本町二丁目

疣稲荷

住所は埼玉県越谷市宮本町2-128( 地図 )。埼玉キャンピングカーレンタルキャブコンフレンズの隣。東武伊勢崎線・越谷駅(西口)から約500メートル。宮子通りと四丁野通りが交差する北西の角。駐車場および車を駐めるスペースはない。