越谷市宮本町一帯は、かつては四町野村(しちょうのむら)と呼ばれていた。市の中央部に位置し、北部を元荒川が流れる。『新編武蔵風土記稿』四町野村の項に「江戸よりの行程六里余、東は越ヶ谷宿、南は谷中村、西は神明下村、北は元荒川を隔て大房村なり。東西四町余、南北へ三町余、水旱ともに患ふ」とある。水旱(すいかん)とは、洪水と日照りによる被害のこと。元荒川の氾濫や干ばつに苦しめられていたことがうかがわれる。現在、宮本町には、5箇所に10基の庚申塔が現存している。

元荒川橋梁南詰下|元荒川右岸側土手

祠

東武伊勢崎線・元荒川橋梁南詰下(越谷駅と北越谷駅の中間地点)の元荒川右岸側土手に小さな祠がある(越谷市宮本町1-1)。土手沿いの道は越谷流山線(県道52号線)。舟運が栄えていた時代、ここには河岸場があった。この祠は、もともとは道路を挟んだ対面の屋敷内にあったものが、この場所に移された。お堂の中には二基の石仏(「水神宮・弁財天」文字塔と青面金剛像庚申塔)が安置されている。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

向かって右側は江戸後期文政7年(1824)の「水神宮・弁財天」文字塔。左側が青面金剛像庚申塔。造立は江戸後期・文政2年(1819)。石塔の型は角柱型。正面には、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。青面金剛は、一面憤怒相、炎髪、六臂。手には宝輪・ショケラ〈女人〉・三叉鉾・弓・宝剣・矢を持っている。左側面には、文政二己卯年とある。右側面は、祠の壁に接しているので解読不能。

迎摂院

迎摂院

続いては、迎摂院(こうしょういん)。場所は、神明橋(神明町二丁目交差点)から元荒川の右岸(越谷流山線)沿いを800メートルほど歩いた右手(越谷市宮本町2-54)。戦国時代・天文4年(1535)開山と伝えられる古刹で、徳川家からの代々の朱印状も残っている。山門の前に、庚申塔や供養塔など四基の石仏が並べられている。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

上の写真の右側は、江戸中期・享保7年(1722)の青面金剛像庚申塔。角柱型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が浮き彫りされている。左側面には「梵字・ウーン」「奉剋彫青面金剛聖容庚申講二世安楽攸」「神明下村 講中」とある。右側面には「享保七壬寅十月吉日」と刻まれている。
 
写真の中央は、江戸中期・元禄13年(1700)造立の青面金剛像庚申塔。舟型。正面の向かって右側に「元禄十三庚辰年 本願良智道心」、左側に「三月吉祥日」、中央に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が刻まれ、「庚申講中」とある。台石には、講員22名の名前がみえる。

薬師堂|宮本町二丁目集会所

薬師堂|宮本町二丁目集会所

三番目は、宮本町二丁目集会所のある薬師堂(越谷市宮本町2-183)。薬王寺と呼ばれた寺院の跡地で、四町野村の野尻組が管理していた。お堂の横には野尻稲荷神社があり、裏手は墓地になっている。境内の鞘堂(さやどう)の中に四基の石仏が並べられてる。

石仏|庚申塔と六地蔵塔

石仏

向かって右端は、江戸中期・宝暦6年(1756)の青面金剛庚申塔。駒型。正面に、日月と青面金剛像が浮き彫りされ、左側面に、梵字(ウーン)・奉供養庚申塔・宝暦六丙子とある。台石には三猿がみえる。
 
右から二番目は、江戸後期・寛政9年(1797)の六地蔵塔。
 
左から二番目は、江戸後期・文政10年(1827)の青面金剛像庚申塔。角柱型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りされ、左側面に「天下太平国土安全」、右側面に「文政十丁亥年十一月」とある。
 
左端は、江戸後期・文化6年(1809)の文字庚申塔。角型。正面に、日月・庚申の文字・三猿が彫られ、左側面には「天下太平国土安全 野尻組 講中」、右側面には「文化六己巳年十一月」とある。両側面の下に講員・世話人14人の名前がみえる。

稲荷神社|疣稲荷

稲荷神社(疣稲荷)

四番目は、宮古通りと四丁野通りが交差する地点(時間貸し駐車場の隣)にある稲荷神社(越谷市宮本町二丁目)。イボが取れるというご利益があるとされ、地元では疣稲荷(いぼいなり)と呼ばれて敬われてきた。境内には三基の石仏がある。

青面金剛像庚申塔と文字庚申塔

青面金剛像庚申塔と文字庚申塔

左端は、江戸後期・天保11年(1840)の「午頭天王」(ごずてんのう)文字塔。
 
中央は、青面金剛庚申塔。江戸後期・天明4年(1784)造立。駒型。正面には、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面には「天下太平国土安全」、右側面には「天明四申辰十一月吉日」とある。台石には、願主をはじめ14人の名前がみえる。
 
右端は、江戸後期・寛政6年(1794)の文字庚申塔。角型。正面には、青面金剛を表わす梵字・ウーン、「青面金剛」の文字、三猿が刻まれている。左側面には「天下和順日月清明」、右側面には「寛政六甲寅天閏十一月吉日 願主 授宝」とある。台石には、20人の名前がみえる。

十王堂集会所

十王堂集会所

五箇所目は、十王堂集会所。場所は、疣稲荷から四丁野村通りを元荒川に向かった100メートルほど先(越谷市宮本町1-106)。『新編武蔵風土記稿』四丁野村の項に「十王堂 弘誓寺持」とある。閻魔王(えんまおう)をはじめとする十王像など多くの仏像が祀られている。集会所の前は墓地になっていて、道路脇には二基の庚申塔が並んでいる。

阿弥陀如来像庚申塔

阿弥陀如来像庚申塔

阿弥陀如来像が浮き彫りされている江戸前期・寛文3年(1663)の庚申塔。舟型。阿弥陀如来を主尊にした庚申塔というのは越谷市内でも数少ない。庚申塔の主尊が青面金剛に一般化する前の形態を示す貴重な石仏といえる。
 
上部に「弥陀」の文字。中央に蓮華座に乗った阿弥陀如来立像が丸彫りされている。両脇に「奉待庚申講人数 地蔵院(※)」「寛文三癸卯年九月廿三日」「施主 敬白」とあり、9人の名前が刻まれている。
 
※かつて四町野村には地蔵院と呼ばれた寺院があった。『新編武蔵風土記稿』四町野村の項に「地蔵院 迎摂院の門徒なり、慶長八年尊栄造立せり」とある。慶長8年(1603)は、徳川家康が江戸幕府を開いた年。この庚申塔は、もともとは地蔵院にあったものが移されたと思われる。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

阿弥陀如来像庚申塔の隣にあるのは青面金剛像庚申塔。江戸中期・明和8年(1771)造立。角型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面に「明和八辛卯」、右側面に「三月吉日」とあり、両側面下に、12人の氏名がみえる。
 

参考文献

石仏の碑面に書かれた銘文は、風化が進んで、読みにくいものもあった。判読が困難な銘文については、正確を期するために『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)および『平成15年度調査 出羽地区の石仏』加藤幸一(平成28年4月改訂)を参照した。