増森橋

新方川に架かる橋|増森橋

増森橋(ましもりばし)。東埼玉資源環境組合第一工場ごみ処理施設(リユース)の南端に位置する。増森橋は江戸時代は土橋であった。昭和の初期にコンクリート橋に架け替えられた。(※9)

※9 加藤幸一「江戸時代の増林村の千間堀に架かる橋」(平成21年〔2009〕『こしがや文化芸術祭』展示部門出展)に、昭和初期の架け替え工事について、「昭和3年(1928)10月に着工し、翌年、昭和4年(1929)3月に竣功している」と書かれている。

現在の増森橋の架橋年

増森橋

現在の橋は昭和54年(1979)に架け替えられたもの。昭和54年というと、東京サミットが開催された年だ。国公立大の共通一次試験がはじめて行なわれた年でもあった。越谷市では、6月に県営しらこばと水上公園がオープンした。

増森橋からの風景

上流

増森橋から新方川の上流を望む

増森橋から新方川の上流を望む。右手前方に千代田橋が見える。左手(右岸側)は増森地区。水田風景が広がっている。同じ新方川の右岸側でも花田地区はほとんどが住宅地になってしまっているが、増森地区には、左岸側を含めて、まだ田んぼが多く残っている。

下流

増森橋から新方川の下流を望む

増森橋の中央から新方川の下流を望む。500メートルほど先に新田橋(しんでんばし)が架かっているが、新方川は増森橋から350メートルほど先で東に流路を変えるので、増森橋からは新田橋は見えない。写真で見ると、新方川が前方で東に(左に)流路を変えている様子が分かる。

左岸側|北東

増森橋から新方川の左岸側道路を望む

増森橋を通る道を(左岸側から)北東にまっすぐ進むと800メートル先で平方東京線にぶつかる。上の写真の左手はリユース(。東埼玉資源環境組合第一工場ごみ処理施設)。リユースを越えると道の両脇に増森地区の田んぼが広がっている。

右岸側|南西

増森橋から新方川の右岸側道路を望む

増森橋を渡って右岸側の道を南西に800メートルほど進むと、増森・増林を経て東越谷地区に入り、不動橋通りに出る。交差点をそのまま西に直進すると、900メートル先で産業道路に出る。

この道の途中に江戸時代からの古道がある。

図

[引用元]Googleマップ

上の図の赤い●印は、不動橋通りとの交差点。交差点を過ぎると、100メートル先で十字路にぶつかる(赤い▼印)。十字路の手前は東越谷九丁目、十字路を過ぎると東越谷八丁目。この十字路から江戸時代の古道になる(上の図の緑色の道)。越谷市立増林保育所を過ぎ、産業道路(越谷八潮線)を渡り(赤い○印)、さらに進むと道が二手に分かれる(上の図の赤い▲印)。ここまで(▼から▲まで)が、江戸時代の古道。

越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏による補足

案内役の加藤氏

今では道幅が大きく広がり、古くから地元に住んでいる人以外は知られざる古道となってしまいました。かつては、この古道の北側には古い民家が建ち並んでいて、砂地がみられました。

この古道の北側にも古道があった。

図

[引用元]Googleマップ

この古道の北側に、もうひとつ古道があったが、開発で消えてしまった。今は何の痕跡も残っていない。先に説明した古道は、上の図の緑色の道。消えてしまった古道は紫色の道(今はない)。
 
今はなき古道は、不動橋通りとの交差点(上の図の赤い●印)を過ぎた100メートルほど先の地点(上の図の赤い○印)にあった追分(おいわけ)から西(右)に700メートルほど進んで、現在の産業道路(赤い★印〔※10〕)に至るまでの道であった。

※10 赤い★印の地点は産業道路と市役所前中央通りが交わる「東越谷三丁目」交差点。

また、追分には道しるべもあったという。越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏が補足してくれた。

案内役の加藤氏

追分には道しるべがあったはずでしたが、私が調査したときは道路の新設工事が始まり、すでに行方不明になっていました。今も残っている古道は南西に向かっていますが、地域開発ですべて消えてしまった古道は西に向かっていました。今はなき古道は古老のみが「知る人ぞ知る」です。後世にこの事実を残しておきたいものです。

 
増森橋へ戻る。

新方川左岸|増森橋から新田橋へ

伊藤ハム東京ミートセンター

増森橋をあとに新方川左岸沿いの道を下流に向かって歩く。次の新田橋までは約500メートル。上の写真は増森橋と新田橋の中間地点のあたりから増森橋を望んだ風景。右手の手前に見える三階建ての建物は伊藤ハム東京ミートセンター

新田橋手前

新田橋手前

新方川の流れに沿って歩く。曲流を過ぎると前方に新田橋が見えてきた。

新田橋

新方川に架かる橋|新田橋

新田橋(しんでんばし)。並行して架かっているのは昭和49年(1974)完工の新方川水管橋。
 
新田橋は、江戸時代からこの場所に架かっていた。越谷市郷土研究会・山本泰秀氏の調査によると「明治9年(1876)当時、下千間堀に架かっていた橋(※11)は、新田橋だけが木橋で、あとの橋は土橋だった。昭和初期にコンクリート橋への架け替えが行なわれ、新田橋は昭和4年(1929)にコンクリート橋になった」(※12)という。

※11 定使野橋(現・宮野橋)・城之上橋・市道橋(現・城之上橋)・二子曽根橋(現・千代田橋)・増森橋・新田橋・昭和橋

※12 加藤幸一「江戸時代の増林村の千間堀に架かる橋」(平成21年〔2009〕『こしがや文化芸術祭』展示部門出展)

現在の新田橋の架橋年

現在の新田橋は昭和55年(1980)3月に架け替えられたもの。昭和55年というと、巨人軍の王貞治選手が引退、芸能界では山口百恵が引退した年でもある。越谷市では、葛西用水の土手にチューリップが植えられ、平和橋のたもとに藤棚ができた。市役所の別館が完成したのも昭和55年だった。

新田橋からの風景

上流

新田橋から新方川の上流を望む

新田橋から新方川の上流を望む。新方川は、増森橋から東南に流下して、新田橋の手前で南に曲流しているので、新田橋からは増森橋は見えない。上の写真を見ると曲流している様子が分かる。前方右手にリユースの展望台が見える。左手の遊歩道は、新方川の右岸土手道を整備してつくられた新方川緑道。

下流

新田橋から新方川の下流を望む

下流を望む。上の写真では新方川水管橋にさえぎられて見にくいが、正面前方に新ましもり橋が見える。

左岸側|北詰

新田橋|北詰の道

新田橋の北詰(左岸側)から道をまっすぐ400メートルほど北に進むと丁字路に出る。左の道はいちごタウン通り。丁字路を右に折れると平方東京線にぶつかる。

右岸川|南詰

新田橋|南詰の道

新田橋の南詰(右岸側)から道をまっすぐ南に進むと、250メートルほどで、元荒川の左岸沿いを通る道に出る。このあたりも水田が多く残っている。