新方川緑道|宮野橋から鷹匠橋へ

新方川緑道を宮野橋から鷹匠橋へ歩く

宮野橋から鷹匠橋(たかじょうばし)に向かう。新方川緑道(新方川右岸の土手道)を進む。宮野橋から鷹匠橋までの距離は約500メートル。上の写真は遊歩道から望んだ宮野橋の風景。左手は花田スポット公園。前方の施設は花田第二樋門。その遠く先に宮野橋が小さく見える。

鷹匠橋が見えてきた

鷹匠橋が見えてきた

新方川を左に見ながら土手道を進む。前方に鷹匠橋が見えてきた。その先にリユース(東埼玉資源環境組合)の展望台が見える。

鷹匠橋

鷹匠橋

鷹匠橋(たかじょうばし)。昭和5年(1930)に、この場所に架けられた。それまではこの場所には橋は架かっていなかった。当時の橋はコンクリート製。現在の橋は、新方川の改修工事に伴い、昭和60年(1985)3月に架け替えられたもの。橋の長さは51メートル、幅は14メートル。平成14年(2002)2月に塗り替えられた。

鷹匠橋は、もともとは現在の場所から150メートルほど下流(花田第一樋門の西隣)にあった。当時、城之上橋(しろのえばし)とも呼ばれた。これについては次項「旧鷹匠橋跡・旧城之上橋跡」で解説する。また鷹匠橋の名前の由来についても次項であわせて触れる。
清伝寺跡

鷹匠橋から増林方面を望む

橋を渡ると(新方川の左岸側は)増林(ましばやし)になる。越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏によると「かつて、鷹匠橋を渡ったすぐ右手(自然堤防上)に、清伝寺(※3)というお寺があった」ということである。清伝寺があったのは上の写真の黄色い▼印付近。

※3 清伝寺(せいでんじ)…増林にある林泉寺の下寺(したでら)。下寺とは本寺(ほんじ)に所属する寺。

鷹匠橋からの風景

上流

鷹匠橋から新方川の上流を望む

鷹匠橋の中ほどから新方川の上流を望む。前方に小さく宮野橋が見える。左手(右岸側)は花田地区。右手(左岸側)は増林地区。右手の土手にある水色の手すりが付いた施設は宮田排水樋管(ひかん)。

下流

鷹匠橋から新方川の下流を望む

橋の中央から下流を望む。正面の橋は城之上橋(しろのうえばし)。左奥にリユース(東埼玉資源環境組合)の展望台が見える。右岸土手の中ほどに小さく見える施設は花田第一樋門ポンプゲート。

右岸側|南西

鷹匠橋の右岸側の景色

橋の右岸側は花田地区。道をこのまま南西にまっすぐ進むと、800メートルほど先で産業道路とぶつかり、産業道路を越えると、道の名称が青葉通りになって、新宮前橋で元荒川を越え、御道橋(※4)で逆川を越え、東武伊勢崎線のガード下(越谷駅の北)を抜けていく。

※4 御道橋(みどうばし)…橋の名称は、近くの御殿町(ごてんちょう)の「御」と新道(しんみち)の「道」に由来する。

左岸川|北東

鷹匠橋の左岸側の景色

橋の左岸側は増林地区。橋を越えて道を北東に進むと、1キロメートルほどで平方東京線にぶつかる。鷹匠橋から平方東京線に向かう道の両脇は広大な水田地帯。この一帯は、農村時代の越谷の原風景を今に残している。

鷹匠橋から花田第一樋門へ

鷹匠橋

鷹匠橋(たかじょうばし)をあとに、新方川右岸側の土手道(新方川緑道)を流れに沿って、花田第一樋門(はなた だいいち ひもん)、城之上橋(しろのうえばし)へと向かう。

花田第一樋門

花田第一樋門

花田第一樋門。鷹匠橋と城之上橋のほぼ中間地点に設置されている。鷹匠橋からは150メートル、城之上橋までは150メートル。樋門は近隣の住宅地の水を新方川に排水するための施設。

花田第一樋門ポンプゲート

花田第一樋門ポンプゲート

道路側の土手にはポンプ場が設置されている。名称は花田第一樋門ポンプゲート。

樋門とポンプ場の説明は本記事では割愛する。樋門とポンプ場については、2021年7月8日に行なわれた越谷市郷土研究会の史跡めぐり(最古の石仏と下千間堀)の様子を記した別記事で解説している。リンク先を以下に示す。
https://koshigayatanbo.com/shisekimeguri-shimosengenbori/2/

現在、花田第一樋門の上流に鷹匠橋(たかじょうばし)、下流に城之上橋(しろのうえばし)が架かっているが、かつては、この場所(花田第一樋門の西側)に、「しろのえばし」(城之上橋)と呼ばれる橋が架かっていた(上の写真の黄色い●印のあたり)

旧鷹匠橋跡・旧城之上橋跡

当時の橋は、人がひとり通れるくらいの欄干(らんかん)のない土橋だった。上の写真は、当時の橋の位置を両手で指し示す越谷市郷土研究会の加藤氏。
 
「しろのえばし」(城之上橋)と呼ばれた土橋は「鷹匠橋」(たかじょうばし)とも呼ばれるようになる。その理由を加藤氏が地元の古老から聞いたという話をまじえ教えてくれた。

案内役の加藤氏

明治41年(1908)に、大林にできた宮内庁(当時は宮内省)の鴨場に勤める鷹匠(たかじょう=鷹を訓練する人)が、下千間堀の上流からやって来て、この土橋を渡って、対岸の増林村で鷹の訓練をしていました。「鷹匠が通る橋」ということで、この土橋は「鷹匠橋」と呼ばれるようになりました。


昭和5年(1930)に、この場所から上流に、現在の鷹匠橋が新設されるが、鷹匠橋の名前は、加藤氏のこの話(鷹匠が利用する橋)に由来している。

新方川緑道|城之上橋へ

新方川緑道|城之上橋

花田第一樋門をあとに、新方川右岸側の土手道(新方川緑道)を流れに沿って歩くこと150メートル。城之上橋(しのろうえばし)に着いた。

城之上橋|旧・市道橋

新方川緑道|城之上橋

現在の城之上橋(しろのうえばし)は、新方川の改修事業にあわせて昭和61年(1986)12月に架け替えられた。長さは51メートル、幅は10メートル。「城之上」はこの付近の旧字名で、江戸時代、徳川家康が鷹狩りの休憩所として作らせた御茶屋御殿(おちゃやごてん)が、このあたりにあったことに由来するといわれている。(※5)

※5 越谷市政施行40周年記念誌『市制施行40年の足跡 ときを超えて』越谷市(平成10年11月発行)「新方川に架かる橋」p.91

越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏に補足してもらった。

案内役の加藤氏

越谷市郷土研究会の今井基善(もとよし)氏によると、「『城之上』には、昔、将軍様が鷹狩りに来たときに利用する『お狩場茶屋』(おかりばちゃや)があり、将軍様が来ることから、このあたりを「城」という字を使って『城之上』と呼んだ」との言い伝えが昔からあったといいます。
 
この「お狩場茶屋」は、将軍様が狩り(鷹狩り)をするときの休憩所という意味で、幕府の御茶屋御殿であったに違いないと思われていました(※6)。地名に「城」の字が付いていることから「ここに何か城のような重要な施設、すなわち御茶屋御殿(お狩場茶屋)があった」と信じられてきました。

※6 城ノ上に住んでいる小島初治氏による。

この橋は市道橋と呼ばれる土橋だった

越谷市郷土研究会の山本泰秀氏によると「江戸時代、現在の城之上橋の地点には、市道橋(いちみちばし)と呼ばれる土橋が架かっていた」という。なぜ市道橋が城之上橋に改名されたのか? 同会・顧問の加藤幸一氏が解説してくれた。

案内役の加藤氏

かつて、花田第一樋門の西隣あたりに「城之上橋」(しろのえばし)と呼ばれる土橋があって、「鷹匠橋」とも呼ばれた、ということは、前項でお話ししたとおりです。昭和5年(1930)に、現在の鷹匠橋の位置にコンクリート橋が新設され、その橋は「鷹匠橋」と名付けられました。現在の鷹匠橋です。続いて、土橋だった市道橋が同年、コンクリート橋に架け替えられました。そのとき、旧「城之上橋」の名前を残すために、市道橋の名称を城之上橋(しろのうえばし)にしたのです。

城之上橋からの風景

上流

城之上橋から新方川の上流を望む

城之上橋の中央から新方川の上流を望む。正面に鷹匠橋、前方(右岸土手)に花田第一樋門ポンプゲートが見える。右手(左岸側)には増林地区の田んぼが広がっている。右岸側は花田地区。

下流

城之上橋から新方川の上流を望む

下流を望む。正面に、新方川水管橋と東橋(あずまばし)、そのうしろ(左岸側)には、越谷市立総合体育館、リユース(東埼玉資源環境組合・第一工場ごみ処理施設)の展望台が見える。左岸側・右岸側はともに増林。

右岸側|南西

城之上橋(右岸側)から南西を望む

城之上橋(右岸側)から道をまっすぐ南西に進むと、1,400メートルほどで産業道路にぶつかる。道の右手は花田地区、左手は増林地区。
 
橋から100メートルほど先にY字路があり(上の写真の黄色い●印)、斜め左に行った50メートル先に、城ノ上の稲荷社がある(上の写真の黄色い▼印)

城ノ上稲荷神社

城ノ上稲荷神社

城ノ上(しろのえ)稲荷神社。城ノ上記念会館(越谷市増林6006)の横にある。木製の赤い両部鳥居(りょうぶとりい)が印象的。木を使った神額には「正一位稲荷」と書かれている。城ノ上は、かつては地元では「しろのえ」と呼ばれた。現在は「しろのうえ」と呼ぶ。

二基の石仏

二基の石仏|庚申塔と馬頭観音文字塔

境内(社殿に向かって左手)にある庚申塔と馬頭観音文字塔は見逃せない石仏である。

文字庚申塔

文字庚申塔

文字庚申塔は江戸後期・寛政12年(1800)造立。正面の主銘は「青面金剛」(しょうめんこんごう)。その上に「日月」が陽刻されている。台石は二台あって、上には三猿の聞か猿、下の台石には見猿と言わ猿が浮き彫りされ、「講中」(こうじゅう)と刻まれている。左側面には「寛政十二庚申年」「初庚申日」(※7)、右側面には「武州崎玉郡 増林村 城之上組」の文字が確認できる。

※7 「増林地区の石仏」加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)「城之上稲荷神社」89.文字庚申塔(p79)に「(初庚申日は)正月の初庚申日か」とある。

道しるべを兼ねた「馬頭観世音」文字塔

道しるべを兼ねた「馬頭観世音」文字塔

道しるべを兼ねた「馬頭観世音」文字塔。年代は不詳。正面の最頂部に、馬頭観音を表わす梵字「カン」、その下に「馬頭観世音」と刻まれている。右側面には「ふ動道」(不動道=ふどうみち)とある。不動道とは大相模不動尊(大聖寺)に向かう道のこと。越谷には不動道と呼ばれる道が何本もあった。

道しるべ

道しるべ「こしかや」

左側面には「こしかや」(越ヶ谷)と刻まれている。

(参考)道しるべに記されたかつての古道

図

※上の図は加藤氏提供

「馬頭観世音」文字塔の道しるべに記された「不動道」と「越ヶ谷」方面に向かうかつての古道を描いた図を越谷市郷土研究会の加藤氏に提供していただいた(上の図)。城之上橋・千間堀(現在の新方川)・稲荷神社と二つの古道との位置関係がよく分かる。なお、この「不動道」と「越ヶ谷」方面に向かう二つの古道は宅地開発によって消滅した。



城ノ上稲荷神社から城之上橋に戻る。

左岸側|北東

城之上橋(左岸側)から北東を望む

橋を渡って(新方川の左岸側に出て)、道を北東にまっすぐ進むと、1キロ先で平方東京線にぶつかる。この北東に進む道を挟んだ両側は広大な田園地帯。いつまでも残しておきたい農村風景だ。