東越谷一丁目

庚申塔|天明4年

小祠

東越谷一丁目。東福寺の南東、市役所前中央通りの歩道沿い。小祠の中に庚申塔が1基、安置されている。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

安置されているのは、青面金剛像庚申塔。江戸後期・天明4年(1784)造塔。石塔型式は駒型。正面中央に青面金剛。最頂部に「日月」、青面金剛の足元に「邪鬼」。邪鬼の両脇に「二鶏」、最下部に三猿が陽刻されている。
 
青面金剛の姿は、一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつで腕が六本)。剣人型(けんじんがた)。持物は、左上手に法輪、左中手にショケラ(女人=にょにん)、左下手に弓。右上手に矛(ほこ)、右中手に宝剣、右下手に矢。

脇銘

脇銘

脇銘は、左側面に「天下泰平国土安全」、右側面に「天明四甲辰十一月吉日」。

台石

台石

台石には寄進者28人の名前が刻まれている。



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東越谷二丁目

東越谷二丁目では、2箇所の石仏・石塔を調査した。

庚申様と三猿塔

庚申様と三猿塔

新平和橋の南東、元荒川左岸沿いにある住宅地の角地に、二基の石塔が並んでいる。向かって右側の石塔は劣化が激しく造形はまったくわからない。左側の新しい石塔は三猿塔。

庚申様

庚申様

この石塔は、地元では「庚申様」(こうしんさま)と呼ばれ、側面は道しるべを兼ねていたという。破損によって、主尊をはじめ主銘も脇銘もいっさいわからない。かつてはこの場所ではなく、元荒川の土手道にあった。

側面

側面

越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は、この道しるべを兼ねた石塔(庚申様)について、次のように述べている。

案内役の加藤氏

地元の人たちはこの石仏を「こうしん様」と呼んできました。たぶん庚申塔のことでしょう。石塔を管理していた家主の話によりますと、道しるべには、江戸何里、野田何里とか刻まれていたといいます。残念ながら今となってはこれ以上のことはわかりません。もちろん造立年月日や石塔型式もわかりません。

台石

台石

台石には寄進者の名前が刻まれているが、ほとんど読みとれない。
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が、平成11・12年度に、この石塔を調査したときに読みとった寄進者(16人)の名前の一部を「増林地区の石仏石塔」(※10)で、記している。

※10 加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「旧小林村の石仏」120頁

「増林地区の石仏石塔」は越谷市郷土研究会のホームページで閲覧可能。以下 URL を示す。
http://koshigayahistory.org/index.html.html

三猿塔

三猿塔

庚申様の横にある新しい石塔は三匹の猿(見猿・聞か猿・言わ猿)が陽刻された三猿塔。庚申様を管理している家主が平成9年(1997)に建立した。

水神塔

水神塔

東越谷二丁目、個人宅の敷地内にある水神塔(写真は家主の許可を得て撮った)。大正5年(1916)造立。石塔型式は駒型。正面に「妙法水神」「大正五年十二月二十七日」「小水神」などの銘が確認できる。

左側面

左側面

左側面には「大正五年二月七日」の銘と、個人名が確認できる。

右側面

右側面

右側面には「昭和六年九月廿日」の銘と、個人銘が刻まれている。

補足

この水神塔は、もともとは別の場所にあった。
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏はこの水神塔について次のように述べている。

この石塔が祀られていた水神社は、元は瓦曽根溜井の小林村側の中洲の島にあった。
 
越ヶ谷町の漢詩人・山本梅塘(やまもとばいとう)によって明治初期に唱えられた『越ヶ谷八景』のうちの「水神の落雁」(すいじんのらくがん)の水神社である。
 
その水神社のそばにあった「妙法水神」と刻まれた石塔が、現在、このお宅に祀られているのである。水神社は昭和22年(1947)のカスリーン台風にも流されずに残ったという。
 
しかし、昭和38年(1963)ごろから始まった瓦曽根溜井の用排水分離の大工事がきっかけで取り壊される運命となり、水神社と、そばにあったこの石塔は、水神社を守っていたこのお宅に移された。
 
水神社の祠の中には水神様のご神体はなかったという。

※11 加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「越ヶ谷八景の『水神』文字塔」122頁




東越谷二丁目の調査はこれで終了。

東越谷三丁目