越谷市増森・森西川自治会館横の墓地内に越谷市最古の青面金剛像庚申塔がある。残念なことに正面を下にして倒れたままになっていたので、せっかくの像容や銘を見ることができないでいた。このままでは忍びない。2021年6月24日、現地におもむき、石仏を起こしたところ青面金剛像が無傷で姿を現わした。

まずは墓の所有者のお宅を訪問

森西川自治会館横の墓地

今回、ここには、越谷市郷土研究会の「史跡巡り」の下見として立ち寄った。メンバーは三人。庚申塔は共同墓地の一画にある。見学と調査が目的とはいえ勝手に入るのは失礼だ。まずは墓の所有者のお宅を訪問し、許可を得たうえで、現地に入った。

二人がかりで庚申塔を表向きにする

倒れたままの石塔

下向きに倒れたままの庚申塔を見て、なんとか表向きにできないものか、でも無理に力ずくでやって破損などしてはそれこそたいへんなことになる。石仏の下に少し隙間があった。二人で手を入れてみると、表向きにできるかもしないと思えた。慎重に二人で力を合わせたところ、うまく表向きにできた。

土を払ったその瞬間…

青面金剛

ある程度の損傷は覚悟していたが、奇跡的というか、ほぼ無傷だった。庚申塔を表向きにして、青面金剛像のまわりにへばりついていたナメクジやゲジゲジ、ダンゴムシなどを駆除し、土を払ったその瞬間に、曇天だった雲間から太陽が顔を出し、ほんの数秒間だったが、青面金剛像の上に日が差し込んだ。
 
偶然か、神のなせる業か、それは理解しがたいが、しぜんと青面金剛像に手を合わせていた。

姿を現わした青面金剛像

青面金剛庚申塔

石塔の型式は舟型。大きさは、高さ75センチ・幅35センチ・厚さ15センチ(※1)。最頂部が少し欠けているが、これは以前から欠けていたので(※2)、今回倒れたことが原因ではない。
 
石塔の正面に彫られているのは、上から梵字(欠損により判読不能)・日月・青面金剛像・台座・三猿(三匹の猿)・三猿の両脇に雌雄の鶏(二鶏)。石塔の両脇と下部に銘文が刻まれている。

※1 『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日)「庚申塔17番」(p160)

※2 『増森・中島の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)増森30「青面金剛庚申塔」森西川集会所(p35)のスケッチでも石塔の最頂部は欠けた状態で描かれている。

 
それではどのようなものが彫られているのか。上から順番に見ていく。

日月

日月瑞雲

青面金剛の頭の両脇に、雲に乗った太陽と、雲に乗った月が陰刻(※3)されている。向かって左が太陽、右が月。太陽は円(まる)で描かれ、月は、円の中心部に曲線を入れて上弦の月が描かれている。雲は瑞雲(ずいうん)と呼ばれ、めでたいしるし。雲といっしょに描かれた太陽(日)と月は日月瑞雲(じつげつずいうん・ひつきずいうん)とも呼ばれる。

※3 陰刻(いんこく)…凹状に文字や絵を彫ること。凸状に彫ることは陽刻とか浮き彫りという。

青面金剛の像容

青面金剛

青面金剛の像容は、手が六本、中央の手で合掌している(六手合掌型)。

頭と顔

頭と顔|青面金剛

頭は、横じま模様の入った、とんがり帽子をかぶっているように見えるが、これは、頭に蛇を巻きつけている様子を表わしている。顔は忿怒相(ふんぬそう)のようだが、どことなくおだやかな表情にも見えるのは気のせいか。
 
もしかしたら、うつ伏せの状態で倒れたままになっていたのを起こしてくれて、なおかつ顔についてた泥まで払ってくれたお礼にちょっと微笑んでくれたのもかも(笑)

胸にドクロの装身具

胸にドクロの装身具

胸にドクロの瓔珞(ようらく=装身具)を身につけている。ドクロの瓔珞が描かれている青面金剛像は越谷市内では珍しい。

持物

持物|青面金剛像

続いて持物(じもつ)を見てみる。青面金剛など仏像が手にもっているものを持物という。左上手には宝輪(ほうりん)。左下手には弓。両方の中手で合掌。右上手には錫杖(しゃくじょう)。右下手には矢を持っている。

邪鬼?台座?

台座

青面金剛の足の下にあるのは何か? 一般的には、青面金剛の足元には邪鬼(じゃき)が描かれていることが多い。この部分は劣化していて、はっきとりした姿をとらえることはできないが、ヒキガエルがつぶされたような姿の邪鬼に見えなくもない。そう思って見ると、向かって左端に苦しそうな表情の邪鬼の顔らしきものが浮かんでくる。
 
ただし「青面金剛の足元にいるのは邪鬼」という固定観念をもってしまうのは危険だ。『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日)「庚申塔17番」(p160)と、『増森・中島の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)森西川集会所「青面金剛像庚申塔」(p35.92)では、どちらも、この青面金剛像の足元にあるものを邪鬼とはしていない。
 
そう思って改めて見てみると「(青面金剛が邪鬼を)踏みつけている」という感じはしない。しっかと立っている。なので、ここでは、この青面金剛の足元にあるのは「岩をかたどった台座」と解釈しておく。

三猿と二鶏

三猿と二鶏

台座の下に、三猿(さんえん)と呼ばれる三匹の猿が浮き彫りされている。正面向きで、足を開いてしゃがみ、膝にひじを乗せ、手で、目・口・耳をふさいで、見ざる・言わざる・聞かざるの姿をしている。
 
三猿の両脇には、二羽の鶏が向き合った形で刻まれている。向かって右手がおんどり。左手がめんどり。庚申塔に描かれる雄雌二羽の鶏は二鶏(にけい)と呼ばれる。

銘文|両脇

銘文

次は、刻まれた文字(銘文=めいぶん)を読んでみる。
 
向かって右側には「奉造立庚申待結衆」。「結衆」は「けっしゅ」と読む。仲間のこと。「庚申待(こうしんまち)を行なった仲間一同で、つつしんで造立する」といった意味になろうか。
 
向かって左側には「貞享四丁卯十月吉日」(じょうきょうよん・ひのとう・じゅうがつ・きちじつ)とある。この銘からこの庚申塔は江戸前期・貞享4年(1687)の10月に建てられたことがわかる。
 
三猿の脇、向かって右端に「欽」、向かって左端に「言」とある。欽言(きんげん)と読む。「欽」は「謹」と同義。欽言=謹言。つつしんで言上(ごんじょう)する(申しあげる)こと。文の結びの言葉(結語=けつご)として使われている。

銘文|下部

造立者名

下部には「新光寺」(しんこうじ)という寺の名前と、造立者六人の名前が刻まれている。造立者名は、伝左ヱ門・平兵衛・七郎右ヱ門・源七郎・久兵衛・忠左ヱ門。
 
新光寺は真光寺とも表記される。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』増森村の項に「眞光寺 寛永七年 僧賢明の草創なり、本尊阿弥陀」とある。『新編武蔵風土記稿』にある「眞光寺」は、この庚申塔の下部に刻まれている「新光寺」のこと。
 
じつはこの「新光寺」の銘からいろいろなことが分かる。
 
越谷市郷土研究会の加藤氏は、調査報告書『増森・中島の石仏』(※4)で、この銘について「『新光寺』の文字が見られる貴重な石仏である。これにより、ここは『真光寺』の跡地とわかる。寺名で『真』の字の代わりに『新』も使われたのであろう。この地にあった寺院名を知る貴重な石塔といえる」と述べている。

※4 『増森・中島の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)森西川集会所「青面金剛庚申塔」p.92

 
碑文に刻まれている「貞享四丁卯十月吉日」から、この石塔は、越谷市最古の青面金剛像庚申塔であることが分かり、「新光寺」の銘から、ここは、かつて「しんこうじ」と呼ばれたお寺の跡地である、ということが分かるのである。
 
これだけでもこの青面金剛像庚申塔は史跡と呼ぶ価値はじゅうぶんにある。

この場所には越谷市最古の庚申塔が二基並んでいる

造立者名

ちなみに隣りにある三猿庚申塔(上の写真の右端)も越谷市最古。同じ場所に越谷市最古の青面金剛像庚申塔と三猿庚申塔が並んでいる。これはとても貴重な史跡といえる。この一画を保護して、説明板を設置するなどの対策はとれないものだろうか。

事態を憂慮し動き出した人がいる

このままほうっておくと、道路の拡張や墓地の移転などのさいに、この庚申塔は、処分されてしまう可能性がひじょうに高い。この事態を憂慮し、存続に向けて動き出した人がいる。NPO法人越谷市郷土研究会の秦野氏だ。秦野氏は、越谷市議会議員と現地を視察し、その足で越谷市役所の該当する課へ出向いて、この歴史的に貴重な石仏の今後について陳情している。ひじょうに心強い。
 
秦野氏が、この越谷市内最古の青面金剛像について Facebook で発信したコメントのリンク先を下記に示す。ぜひ一読願いたい。
https://www.facebook.com/hideaki.hatano.10/posts/1938733332945277

最後に

本記事の趣旨は「正面(彫刻面)を下に倒れたままになっていた越谷市最古の青面金剛像庚申塔を表向きに戻し、無傷で姿を現わした青面金剛像を主尊とする庚申塔の姿を写真で紹介する」というものなので、庚申待や庚申塔と日月・二鶏・三猿との関係などについてはあえて説明を省いた。
 
また、森西川自治会館前墓地には、貴重な石仏がほかにもある。これらの石仏については別記事(越谷市最古の三猿庚申塔と石仏|越谷市増森・森西川自治会館横墓地)にまとめてある。リンク先を以下に示す。