越谷市増林を通る平方東京線沿いにある笹原組の庚申塔三基を調べた。調査した路傍の石仏を写真とともにお伝えする。場所は、越谷野田線の新方橋南三差路を折れて平方東京線を300メートルほど進んだ左手にある。
増林・笹原組の庚申塔
調査したのは 2023年8月13日。道路脇、民家の生け垣の前が、ちょっとした小さな三角地帯になっいて、そこに三基の庚申塔が並んでいる。
- 文字庚申塔|文化3年
- 青面金剛像庚申塔|年代不詳
- 文字庚申塔|文政13年
三基の庚申塔は、長方形の台石の上に置かれていて、台石の前には花筒や御幣も立てられている。忘れ去られた石仏ではなく、今でも供養されていることがわかる。
このあたりは、かつて、増林村の笹原組(ささらぐみ)と呼ばれた。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「笹原組の住民によって毎年五月一日に庚申塔の前で(供養が)行なわれている」(※1)という。
※1 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「(9)笹原組の庚申塔」67頁
それでは順番に見ていこう。
文字庚申塔|文化3年
向かって左端は文字庚申塔。江戸後期・文化3年(1806)造塔。石塔全体は劣化がひどく、上部は欠けた部分が継ぎ合わされている。石塔の型はわからない。正面の主銘は「庚申」
右側面
右側面には「女人講中」(にょにんこうじゅう)の銘が確認できる。この銘から、この庚申塔は、女性たちだけで建てたことがわかる。「女人講中」で建てた庚申塔は珍しい。
左側面
左側面の銘は確認できない。判読不能。
平成11年(1999)平成12年(2000)に、この庚申塔を調査した越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告書(※2)によると、この庚申塔の左側面の銘は「□化三□□□□」と記されている。調査当時、23年前は、かろうじて、「化」と「三」の文字が読みとれたようだ。
※2 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「(9)笹原組の庚申塔」67頁
青面金剛像庚申塔
真ん中、二基の文字庚申塔にはさまれるように建っているのは青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。造立年代は不詳(※3)
※3 越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)によると、この青面金剛像庚申塔の造立年は「文化三年(1806)三月吉日」と記されている。「庚申塔」217番・173頁
持物
青面金剛像は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつて腕が六本)の剣人型(けんじんがた)。持物は、右上手に三叉鉾(さんさぼこ)、右中手に剣、右下手に矢、左上手に法輪、右下手に弓。
左中手で人身(ショケラ)の髪をつかんでいる。
邪鬼
青面金剛に左アゴを踏まれている仰向け姿勢の邪鬼の顔がなんとも痛々しい。
三猿
邪鬼の下には三猿が陽刻されている。向かって左が言わ猿、中央が聞か猿。右端は見猿。
文字庚申塔|文化13年
向かって右端は文字庚申塔。江戸後期・文化13年(1830)造塔。石塔型式は角柱型。正面の主銘は「庚申」。下部に「三猿」が陽刻されている。
脇銘|左側面
左側面の脇銘は「文政十三庚寅年」
脇銘|右側面
右側面には「二月吉祥日」とある。
台石
台石には「笹原組」と刻まれている。かつてこのあたりは「笹原組」と呼ばれた。昭和55年(1980)に発行された『越谷ふるさと散歩(下)』にも「このあたりは笹原と呼ばれた所であろう」(※4)とある。
※4 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「清涼院跡と護郷神社」77頁
場所
三基の庚申塔がある場所は、越谷野田線の新方橋南三差路を折れて平方東京線を道なりに300メートルほど進んだ左手の道路脇。民家の垣根の前( 地図 )
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参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)