残しておきたい越谷の風景を写真とともに紹介する。今回は、新方川に架かる鷹匠橋の北東100メートル先にある水路脇の石塔と、周囲の田園風景。豊かな自然にめぐまれた「水郷こしがや」の原風景を今に伝えている。

権現宮文字塔

権現宮文字塔|越谷市増林

この石塔は「権現宮」文字塔で、用水路がY字(二股)に分かれる三角地帯の一角に立っている。造立されたのは江戸中期・明和4年(1767)。今から256年前だ。石塔型式は笠付き角型。
 
前方左手にリユース(第一工場ごみ処理施設)の展望台が見える。

主銘

主銘|権現宮

正面の主銘は「権現宮」(ごんげんぐう)

権現とは

「日本の神々は仏教の仏が現世に現れた仮の姿」という神仏習合の時代に設けられた解釈で、権現」に手を合わせることで、「神と仏の両方をうやまことができる」と考えられた。(※1)

※1 (出典)神社人「神道用語」( 権現 )2023年7月28日閲覧.

脇銘|左側面

脇銘

左側面は「明和四丁亥年」

脇銘|右側面

脇銘

右側面には「八月吉日」とある。

よでめ屋敷

よでめ屋敷跡

越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、「このあたりは、かつて通称『よでめ屋敷』と呼ばれ、この石塔はこの屋敷の守り神だったかもしれない」(※2)という。

※2 加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)91頁

清伝寺跡

加藤氏は「このあたりにはかつて清伝寺という寺があった」とも述べている。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「増林村」の項に、「清伝寺 林泉寺末なり、真城山と号す、開山證誉寛永十年十月十七日寂す、本尊阿弥陀を安ぜり」(※3)とある。

※3 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「増林村」179頁

田園風景

石塔の左右前方は水田地帯。前方右手、新方川(にいがたがわ)に架かっているのは城之上橋(しろのうえばし)。正面前方の建物は越谷市立総合体育館。そのうしろ(左手)に見えるタワーは、リユース(第一工場ごみ処理施設)の展望台。
 
このあたりの新方川の右岸側と左岸側の景色は対照的だ。右岸側の花田地区は住宅地。畑地や水田地だったかつての面影はまったく残っていない。これに対し、左岸側の増林地区は、越谷でも数少なくなった水田耕地が広がっている。

石塔と水田

将来、宅地化が進んで、田んぼが埋め立てられたとき、この石塔は破棄されてしまうのかもしれないが、水郷こしがやを象徴するような水路脇の石塔は、記憶にとどめておきたい。

残しておきたい風景写真

撮影年月日…2023年7月27日

場所

石塔(「権現宮」文字塔)の場所は、花田側からは、新方川に架かる鷹匠橋を渡って(新方川の左岸側に出て)直進。100メートル先の右手。増林側からだと、鷹匠橋の手前100メートル左手。水路がY字に分かれている三角地帯の一角( 地図

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参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
越谷市制40周年記念誌編集委員会編『市制施行40年の足跡・ときを超えて』越谷市(平成10年11月発行)