越谷市増林のかけい堀沿いにある二基の庚申塔を調べた。調査した路傍の石仏を写真とともにお伝えする。場所は、定使野橋(じょうつかいのはし)の東70メートル。越谷野田線を折れて、かけい堀に沿った小道を進んだひとつめの十字路角地にある。

二基の庚申塔

二基の庚申塔|越谷市増林

調査したのは 2023年8月17日。辻角(つじかど)、民家の前にあるトタン屋根の鞘堂(さやどう)に、二基の庚申塔が並んでいる。

  1. 青面金剛像庚申塔
  2. 文字庚申塔

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔|元禄17年

向かって左側は青面金剛像庚申塔。江戸中期・元禄17年(1704)造塔。石塔型式は駒型。正面に陽刻されているのは、「日月」「青面金剛像」「二鶏」「邪鬼」「三猿」

剣人型

青面金剛像|剣人型

青面金剛は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつで腕が六本)の剣人型(※1)。左手で人身(ショケラ)の髪をつかみ、左手に剣を持っている。そのほかの持物は、左上手に法輪、左下手に弓、右上手に鉾(ほこ)

※1 青面金剛は腕が六本で、中央の手が合掌している合掌型(がっしょうがた)と、右手に剣を持ち、左手に「ショケラ」と呼ばれる人身を持つ剣人型(けんじんがた)に大別できる。

邪鬼と三猿

邪鬼と三猿

腹ばいの姿勢で腰と背中を青面金剛に踏まれている邪鬼の姿がなんとも痛々しい。邪鬼の下にいるのは三猿(さんえん)。向かって左が言わ猿、中央が聞か猿。右端は見猿。

右側面

脇銘|庚申塔

右側面の脇銘は「元禄十七甲申卯月吉日」。下部に六人の女性の名前が刻まれている。おたつ・おこ□・おふう・おけさ・おとら・おまん。

左側面

脇銘|庚申塔

左側面の脇銘は「奉供養庚申講所願成就」。下部に六人の女性の名前が確認できる。おひつ・おたん・おまん・おけさ・おふし・おふく。

台石

台石

台石の正面にも人名が刻まれているが、劣化が進んで正確に読みとれない。
 
平成11年(1999)平成12年(2000)に、この庚申塔を調査した越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告書(※2)には、台石に刻まれている14人の名前が記されている。男性11人、女性3人。調査当時、23年前は、台石の銘がはっくりと読みとれたようだ。

※2 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「(5)かけい堀そば十字路」63頁

文字庚申塔

文字庚申塔|嘉永7年

向かって右側は道しるべを兼ねた文字庚申塔。江戸後期・嘉永7年(1854)造塔。石塔型式は山状角型。正面の主銘は「庚申塔」

左側面

道しるべ|左ふどう道

左側面の脇銘は「左ふどう道」(左、不動道)

右側面

道しるべ|右のだミち

右側は「右のだミち」(右、野田道)

背面

脇銘

右側面には「嘉永七年六月吉旦樹之」と刻まれている。

もとは別の場所にあった

二基の庚申塔

ここにある二基の庚申塔は、もともとは別の場所にあった。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、次のように述べている。

山本泰秀氏の調査によると、「かけい堀」と県道(越谷野田線)とが交差する南側角地に、かつては、五尺の石塔と、[中略]西方の不動尊(大相模不動尊)への道しるべの石塔があり、野田道と不動道の文字が刻まれていたという。
 
五尺の石塔は、向かって左の青面金剛像庚申塔をさし、道しるべの石塔は、向かって右の文字庚申塔をさすと思われる。

※3 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「(5)かけい堀そば十字路」62-63頁

場所

二の庚申塔|越谷市増林・かけい堀そば

二基の庚申塔がある場所は、新方川(にいがたがわ)に架かる定使野橋(じょうつかいのはし)の東100メートル。越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号)のT字路を折れて、かけい堀脇の小道を進んだひとつめの十字路角地。住所は埼玉県越谷市増林591-3( 地図

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)