徳川家康ゆかりの寺として知られる越谷市・増林(ましばやし)の林泉寺(りんせんじ)を訪ねた。家康が鷹狩のさいに宿泊した御茶屋御殿があったことを示すといわれている「御殿境内」文字塔のほか、家康が馬の手綱を結んだ槙(まき)や口をすすいで手を洗ったとの言い伝えがある井戸などを見学した。

林泉寺の由緒

林泉寺|本堂

林泉寺は創建700年以上と伝えられている浄土宗の古刹(こさつ)。『林泉寺史』によると「林泉寺の開創は、(鎌倉時代後期)永仁5年(1297)である。最初『平僧寺』と名付けられた」(※1)という。平僧寺から西堂寺、上人寺と変遷し、室町中期の文正(ぶんしょう)元年(1466)に現在の林泉寺となった。
 
創建当初のご本尊と言い伝えられてきた阿弥陀如来像の背中に「永仁五年正月十五日」の文字が刻書されていることが、平成16年(2004)6月20日に行なわれた調査で判明した。
 
林泉寺の過去帳にも「金佛阿弥陀如来根源は、當寺本尊ナリ。永仁五(一二九七年)酉年ヨリ當寺本尊トナリ給う」(※1)と記載されている。

※1 林泉寺『林泉寺史』山喜房佛書林(平成202年1月25日発行)「林泉寺の開創当初のご本尊」59頁

徳川家康ゆかりの史跡

徳川家康ゆかりの史跡

林泉寺は、徳川家康ゆかりの寺としても知られ、駒止の槙(こまどめのまき)、権現井戸(ごんげんいど)跡、「御殿境内」と刻まれた文字塔など、家康にまつわる史跡がある。

駒止の槙

駒止の槙

境内でひときわ目を引くのが「駒止の槙」(こまどめのまき)と呼ばれるマキの木。推定樹齢420年、樹高10メートル。越谷市の天然記念物にも指定されている。徳川家康が鷹狩で増林を訪れたときに、林泉寺に立ち寄った家康が、このマキの木に馬をつないだとの言い伝えから「駒止の槙」と呼ばれている。

雪支え

雪支え

※雪支え[撮影]2022年12月30日

冬の時期は、竹で「雪支え」をし、雪の重さで枝や幹が折れないように、雪の被害からマキを守っている。

権現井戸跡

権現井戸跡

徳川家康が鷹狩のさいに林泉寺に立ち寄ったとき、口をすすいで、手を洗ったと伝えられている「権現井戸」(ごんげんいど)跡。権現とは徳川家康の尊称。通称・権現様。
 
林泉寺に立ち寄った家康に茶を接待したさい、その水をくんだことから「権現井戸」と呼ばれれた、との説もある。現在、井戸はかれているが「明治10年ぐらいまでは清水がわいていた」(※2)といわれている。

※2 『越谷市の史蹟と伝説』越谷市教育委員会/越谷市文化財調査委員会(昭和35年4月15日発行)増林地区「史蹟及び伝説」173-174頁

権現井戸の跡碑

権現井戸の跡碑

権現井戸跡の隣、鐘楼堂のうしろにある石碑は、昭和12年(1937)建碑の「権現井戸の跡碑」。家康が鷹狩に来るたびに、林泉寺に憩い、「井戸の聖水を飲むのを喜びとした」(※3)という趣旨の碑文が、裏面に刻まれている。

※3 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「増林林泉寺」82頁

裏面

権現井戸の跡碑|裏面

裏面に刻まれている大意は以下のとおり。

古くから「慶長年間、家康公が鷹狩でこの地に来るたびに、当寺(林泉寺)で休息し、井戸の水をくんで喜んだ」と、言い伝えられているが、昭和11年7月(林泉寺の)藏の中にあった古文書に、このことが記されている箇所が見つかった。よって、「権現井戸」と呼ばれるこの井戸を後世に伝えるために、昔(当時)をしのんで、この場所に記念碑を建てた。

碑文

裏面の碑銘全文を以下に記す。

由来記
 
聞ク慶長次中東照公鷹狩ヲ以テ東武ノ野ニ来ルヤ毎ニ當山ニ憩ヒテ其ノ井ニ汲ムヲ歎トナセリト余昭和十一年七月遂ニ藏中ノ古文書ニ之ヲ索ム乃チ當山第三十一世木村良範師ニ示ス師モ亦其ノ跡ヲ慕フ檀徒総代瀧田正文氏之ヲ識リ共ニ余ニ記ヲ求ム因テ銘シテ権現井戸ト呼ビ以テ公ノ醴泉ニ眷戀タルヲ勒シテ後昆ニ傅フ
 
昭和十二年三月
 
正林山林泉寺檀徒総代 榎本益雄撰文并書
 
寄附者
木村良範
榎本益雄
瀧田正文
 
粕壁石盛

※4 『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「権現井戸の碑銘」131頁

補足

権現井戸の跡碑

『林泉寺史』「権現井戸 記念碑創設」の項に、記念碑が建てられた経緯が載っているので、以下、引用して紹介する。

徳川家康天下を掌握せるも各地に徳川氏に怨を含むもの地下に潜行せるものありて全く民心帰服せざるあり。大公野遊に名をかり民情視察のため随所に鷹狩を催す。
 
口碑(こうひ)に依り大公當山に立ち寄り手洗い口うがいせられたる井戸と称するもの「御手洗井戸」(みたらいいど)と称し、明治時代まで「井戸やかた」を残して存せり。
 
その昔を偲び、この縁の箇所に、榎本益雄氏の発起に依り滝田正文氏、住職(定譽)の三名、志を同じくし行を供にし、記念碑を創設す。

※5 林泉寺『林泉寺史』山喜房佛書林(平成22年1月25日発行)「権現井戸 記念碑創設」107頁

「御殿境内」文字塔

「御殿境内」文字塔

山門(赤門)前(山門に向かって左手)に、「御殿境内」(ごてんけいだい)と刻まれた文字塔がある。正面は「正観音武州順禮」、左側面は「増林村林泉寺」、右側面は「第三十一番」、そして裏面に「御殿境内」とある。石塔の造立年代は不詳。

御殿境内とは?

「御殿境内」の「御殿」とは、徳川家康が鷹狩や巡察のさいに休憩や宿泊をするために建てた御殿のこと。御茶屋御殿(おちゃやごてん)とも呼ばれた。
 
家康は、鷹狩で越谷にたびたひだ訪れていて、慶長9年(1604)に、現在の御殿町に越ヶ谷御殿を建てた。越ヶ谷御殿はその後、明暦の大火(1657年)で江戸城がほぼ全焼したときに、江戸に移された。
 
御殿町に越ヶ谷御殿ができる前は、増林に御茶屋御殿があった(※6)。ただし、増林のどこにあったかは諸説あって判明していない。

※6 『林泉寺史』(※7)に、徳川家康の正史である『東照宮御實紀』(とうしょうぐうごじっき)慶長九年是年(一六〇四)にある「埼玉郡増林村のご離館(御茶屋御殿)を越谷にうつされ、濱野藤右衛門某に勤番を仰付らる」の箇所から「この記述により家康の御離館は、慶長9年(1604)以前には、林泉寺のある増林に存在したことがわかる」とある。

※7 林泉寺『林泉寺史』山喜房佛書林(平成22年1月25日発行)「徳川家康と林泉寺」100頁

 
林泉寺の「御殿境内」文字塔は、そのまま素直に読めば、家康の御茶屋御殿の境内地、という意味である。したがって、現在の御殿町に越ヶ谷御殿ができる前は、林泉寺の周辺が御茶屋御殿の敷地内(境内地)だった、とする説の根拠にもなっている。
 
林泉寺の境内には、家康が馬をつないだと言われている駒止の槙(こまどめのまき)や家康が口をゆすいで手を洗ったと伝えられている権現井戸などがあることから、林泉寺は家康ゆかりの寺であることは間違いないと思われる。

御茶屋御殿はどこにあったのか?

それでは越ヶ谷御殿ができる前、御茶屋御殿は増林のどこにあったのか?
 
これまでは、林泉寺周辺にあったとの説が通説だったが、最近、増林の「城之上」(しろのうえ)という地名が注目され、現在、新方川に架かる城之上橋(しろのうえばし)周辺に御殿があったとする説も有力視されている。

関連記事

これについては、本ブログの「鷹狩好きの家康は越谷に建てた御殿がお気に入りだった」(越ヶ谷御殿の場所)で、紹介している。

増林の御茶屋御殿

家康の御殿について、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が、城之上説も併せて「増林の御茶屋御殿」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/150930_m_goten_kk.pdf

参拝情報

林泉寺|越谷市増林

林泉寺の住所は、埼玉県越谷市増林3818( 地図 )。郵便番号は 343-0011。場所は、平方東京線(埼玉県道・東京都道102号)沿い。越谷市斎場(増林公園)の南西50メートル。駐車場は平方東京線沿い(不動堂の手前)と北側(第二駐車場)の二箇所。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。

参考文献

林泉寺『林泉寺史』山喜房佛書林(平成22年1月25日発行)
『越谷市史(一)通史上』越谷市役所(昭和53年3月30日発行)
『越谷市史続資料編(一)』越谷市史編さん室(昭和56年3月26日発行)
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『越谷市の史蹟と伝説』越谷市教育委員会/越谷市文化財調査委員会(昭和35年4月15日発行)
竹内誠・本間清利『わが町の歴史越谷』文一総合出版(昭和59年7月15日発行)
加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)
加藤幸一「増林の御茶屋御殿」(http://koshigayahistory.org/150930_m_goten_kk.pdf)(2023年1月1日閲覧)