家康と鷹狩と御殿

越ヶ谷御殿の場所

関ヶ原の戦いに勝利し、天下の大将軍になる前は、そのとき、そのときで、家康は、越谷の大聖寺のような寺院を借りて泊まったりしていましたが、自分専用の宿舎としての御殿を各地に建てはじめましたが、越谷にも御殿が建てられました。

宮川進氏

越ヶ谷御殿はどこに建てられたのでしょうか? 

増林説

林泉寺

林泉寺(越谷市増林)

じつは今の御殿町に建てられる前に、増林(ましばやし)に建てられた、という記録があります。しかしそれは増林のどこだったのかは、残念ながら不明です。
 
これまでは、増林の林泉寺には「御殿境内」(ごてんけいだい)と刻まれている石塔があり、境内に「駒止の槙」(こまどめのまき)という、家康が馬をつないだという槙(まき)、そして「権現井戸の跡」(ごんげんいどのあと)という伝説の場所が残っているので、ほぼ、増林にあったと考えられてきました。

「御殿境内」文字塔

「御殿境内」文字塔

「御殿境内」文字塔(林泉寺)

林泉寺の山門前にある文字塔。裏面に「御殿境内」と刻まれている。

駒止の槙

駒止の槙(林泉寺)

駒止の槙(林泉寺)

権現井戸跡碑

権現井戸跡碑(林泉寺)

権現井戸跡碑(林泉寺)

権現井戸跡

権現井戸跡

権現井戸跡(林泉寺)

城ノ上説

ところが最近になって「城ノ上」(しろのうえ)という地名が増林にあることが注目されてきました。

城之上橋付近の田園地帯(越谷市増林)

城之上橋付近の田園地帯(越谷市増林)

「城ノ上」というのは、増林から新方川(にいがたがわ)をまたぎ、花田へ延びる、城之上橋(しろのうえばし)周辺で、越谷市郷土研究会の顧問である加藤幸一氏によると、「それが家康の御殿を示す可能性があると地元の方が言っている」(※1)とのことです。

(※1)家康の御殿については加藤氏が「増林の御茶屋御殿」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/150930_m_goten_kk.pdf

増林説・城ノ上説決着つかず

地勢としては、林泉寺は古利根川の自然堤防上にあり、城ノ上は元荒川の自然堤防上にあるので、どちらも可能性があります。

宮川進氏

ともに伝説を持っているので、今のところ決着はつきません。


発掘調査が行なわれて、しかるべき遺物が発見されるのを待つしかないという状況です。

御殿町の御殿

越ヶ谷御殿跡碑(越谷市御殿町)

越ヶ谷御殿跡碑(越谷市御殿町)

また、増林から移った越ヶ谷御殿についても、御殿町のどこにあったのかは不明です。
 
元荒川が大沢のほうから東進して「右へ急に曲がる部分が囲む場所」が有力ではあり、越谷市の教育委員会では、御殿町で新しい建築が行なわれるたびに発掘調査を行なって、御殿の遺物発見を心がけておられますが、これも発見待ちになっています。
 
なにしろ江戸時代の明暦の大火(1657年)で江戸城がほぼ全焼したあと、越ヶ谷御殿は礎石を含め、すべてを江戸に持っていったわけですが、精密な発掘調査さえ行なえば、何かは出てくるはずです。

宮川進氏

楽しみに待つことといたしましょう。

家康と次代将軍たちの越ヶ谷御殿

今の御殿町に建てられた越ヶ谷御殿は、地元の豪族・会田出羽資久(あいだ でわ すけひさ)から土地を譲(ゆず)られたものです。家康は数ある自分専用の鷹狩用の御殿のなかでも越谷の御殿気に入っていました。
 
たとえば、慶長18年(1613)の11月には七日間にわたって滞在し、19羽の鶴を捕えることができてご機嫌だったようですし、慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で勝利したあと、11月には10日から6日間、滞在しました。
 
家康はその翌年(元和2年)に、残念ながら生涯を閉じました。

二代将軍・秀忠

その後、二代将軍・秀忠も頻繁に越ヶ谷御殿を訪れていました。元和6年(1620)の滞在は、幕閣の重臣一同とともに一か月以上も滞在し、寛永2年(1625)12月の滞在では、御殿内で茶の湯を催すなど優雅な鷹狩だったようです。

三代将軍・家光

三代将軍・家光が越谷を訪れた記録は正史には見えませんが、会田家系図には、家光が越ヶ谷御殿に来遊し、将軍直筆の絵や御手道具を下賜したとあります。

四代将軍・家綱

四代目の家綱は、まだ将軍になっていない大納言(だいなごん)のときに、日光社参に出かけたさい(慶安2年〈1649〉4月12日)、行きに昼食のために越ヶ谷御殿を利用し、帰路(4月22日)には越谷で泊まりました。
 
これが将軍家最後の利用で、家綱が将軍就任後の明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)で江戸城のほとんどが焼失したため、越ヶ谷御殿の全部を江戸城内に移築し、仮の将軍の住まいとされ、越ヶ谷御殿の歴史は、ここで幕を閉じました。

越ヶ谷御殿の姿は?

江戸図屏風 (鴻巣御殿)

鴻巣御殿(江戸図屏風)※2

※2 国立歴史民族博物館「資料・データベース」より転載

越ヶ谷御殿の絵図は残念ながら残っておりません。上の絵図は鴻巣御殿(こうのすごてん)の一部です(国立歴史民族博物館所蔵)。越ヶ谷御殿の姿もこのようなものだったのでしょうか。上の絵図を参考に、みなさん、それぞれ想像してみてください。