越谷市増森(ましもり)森西川自治会館の横手に共同墓地がある。場所は、埼玉県立越谷東高等学校の東300メートル、元荒川左岸土手に並行する市道沿い。眞光寺と称された寺院の跡地で、敷地内にある越谷市最古の三猿庚申塔と青面金剛像庚申塔のほか十九夜塔や名号塔などの石仏を現地取材した。当日、墓地内に先祖代々の墓がある家の当主から貴重な話を聞くこともできた。

墓地に先祖代々の墓がある家の当主と遭遇

森西川自治会館と共同墓地|越谷市増森

現地を訪れたのは、2021年2月21日・日曜日。時間は午後1時半。墓地で石仏の写真を撮っていると、自転車に乗った年配の男性が声をかけてきた。「何かの調査ですか?」。「この墓地にある越谷市でいちばん古い(三猿)庚申塔を調べにきました」と伝えると、「ここには江戸時代の十九夜塔もある」と教えてくれた。この男性は、この地に代々続く須賀(すか)家の12代目当主で、墓地内には先祖代々の墓もあるとのこと。それなら、ということで、須賀氏にお願いして、取材に協力していただいた。

森西川の地名の由来

共同墓地の横にある森西川自治会館。須賀氏が、「森西川」という地名の由来について教えてくれた。「増森(ましもり)と、隣村の増林(ますばやし)には、それぞれ『西川』という場所があった。増林の西川は『増林西川』と呼ばれ、増森の西川は『森西川』と呼ばれた」

道しるべ付き文字庚申塔

道しるべ付き文字庚申塔

墓地の片隅、T字路の角地に道しるべ付き文字庚申塔がある。石塔型式は駒型。江戸後期・文化5年(1808)造立。正面を元荒川に向けて立っている。
 
正面の最上部には、日月雲、中央に「庚申」、脇銘に「文化五戊辰年」「三月吉日」、下部に「寄嶋組」「西川組」「講中」とあり、最下部に三猿が刻まれている。「寄嶋組」と「西川組」は、増森村の小名(こな=村を小分けした名)。この銘からこの庚申塔は、増森村の寄嶋組と西川組の庚申講中によって寄進されたことが分かる。

須賀氏の話によると、この道しるべ付き庚申塔は、一時期、倒れたままになっていたが、地元の人たちが「忍びない」ということで、コンクリートを打って庚申塔を元の位置に立て直したそうである。

右側面|越ヶ谷 大相模不動 道

道標|こしがや道・ふどう道

右側面には「越ヶ谷 大相模不動 道」と刻まれている。越ヶ谷町に続く「こしがや道」、大相模不動尊(大聖寺)に続く「ふどう道」への道しるべになっている。

左側面|吉川道

道標|吉川道

左側面には「吉川道」とある。吉川に続く「よしかわ道」への道しるべ

裏面|榎戸 赤岩 渡 のた道

道標|榎戸渡・赤岩渡・野田道

裏面には「榎戸 赤岩 渡 のた道」とみえる(※1)。榎戸(えのきど)の渡しと、赤岩の渡し、野田へ続く野田道(のだ道)への道しるべになっている。「のた道」は野田道(のだみち)のこと。かつて、増森の北を流れる古利根川には、榎戸渡しや赤岩渡しなどの渡し場があった。

※1 裏面は劣化が進んでいて判読しにくい箇所があるので、裏面の銘文については『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「庚申塔」の項(p173)に基づいた。

越谷市最古の三猿庚申塔

三猿庚申塔

道路沿いに「三猿」が刻まれた駒型の石塔がある。江戸前期・寛文4年(1664)造立。この石塔は「三猿」(見猿・聞か猿・言わ猿)だけが刻まれた初期の庚申塔(三猿庚申塔)で、三猿庚申塔としては越谷最古。貴重な石仏である。

三猿が浮き彫りされている

三猿庚申塔

正面の中央に三猿〈見猿・聞か猿・言わ猿〉が浮き彫りされ、下部に「寛文四年十月吉日」のほか、「平左ヱ門」「仁左ヱ門」など寄進者と思われる14人の名前が刻まれているが、劣化が進んで二名の名前しか判読できない。

倒れている石仏

石仏

三猿庚申塔の隣に倒れてしまっている石仏がある。

倒れているのは越谷市内最古の青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

この石仏は、江戸前期・貞享4年(1687)に造立された舟型の庚申塔で、主尊に青面金剛が浮き彫りされている。青面金剛像を主尊にした庚申塔(青面金剛像庚申塔)としては越谷市内最古。隣にある越谷市内最古の三猿庚申塔とともに貴重な史料といえる。
 
正面を下にして倒れてしまっているので主銘や脇銘などは確認できないが、文献(※2)によると、正面には、日月・青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されていて(※3)、脇銘に、「奉造立庚申堂結衆」「貞享四丁卯十月吉日」「欽言」とあり、「新光寺 伝左ヱ門 平兵衛 七郎右ヱ門 源七郎 久兵衛 忠左ヱ門」など寄進者の名前が刻まれていることがわかる。

※2 『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)庚申塔十七番(P160)および平成16・17年度調査(平成31年7月改訂)『増林地区の石仏』加藤幸一(越谷市市立図書館所蔵)「森西川集会所」(pp91-92)

※3 平成16・17年度調査(平成31年7月改訂)『増林地区の石仏』加藤幸一(越谷市市立図書館所蔵)「青面金剛像庚申塔」(p35)に、加藤氏が模写した青面金剛像庚申塔(日月・青面金剛像・二鶏・三猿)が描かれている。

石仏が倒れたのはいつごろか?

地誌研究倶楽部の巡検

この青面金剛像庚申塔はいつごろ倒れてしまったのか。2019年(令和元年)11月28日に実施された越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の巡検「増森新田と中島の河川と石仏」に参加して、現地を訪れたときはすでに倒れていた(上の写真は巡検の様子)。須賀氏によると「この石仏が倒れたのは2年ほど前(2018年)」ということなので、2018年(平成30年)から2019年(令和元年)11月までの間に倒れたものと思われる。

【報告】倒れたままの庚申塔を起こした。

歴史的に貴重な越谷市最古の青面金剛庚申塔を倒れたままにしておくのは忍びない。なんとかならないものか。2021年6月24日、現地におもむき、石仏を起こしたところ青面金剛像が無傷で姿を現わした。その様子は下記の記事でお伝えしている。

この場所はもともとは寺だった

森西川自治会館と共同墓地

この青面金剛像庚申塔の脇銘に見られる「新光寺」は、この場所にあった寺の名前。『新編武蔵風土記稿』(埼玉郡之八)新方領 「増森村」の項に「真光寺 寛永七年僧賢明の草創なり、本尊阿弥陀仏」とある。須賀氏の話によると、「以前は森西川自治会館が建っている場所はお堂だった」ということなので、ここは新光寺の跡地だったことが分かる。
 
なお『新編武蔵風土記稿』では「真光寺」となっているが、「真光寺」と「新光寺」の表記の違いについて、『増林地区の石仏』(※4)に「寺名で『真』の替わりに『新』も使われたのであろう。この地にあった寺院名を知る貴重な石塔といえる」とある。

※4 平成16・17年度調査(平成31年7月改訂)『増林地区の石仏』加藤幸一(越谷市市立図書館所蔵)「森西川集会所」(p92)

観音逆修供養塔

観音逆修供養塔

倒れている青面金剛像庚申塔のうしろに、聖観音菩薩立像が陽刻された光背型(舟型)の観音逆修供養塔(かんのんぎゃくしゅくようとう)がある。江戸前期・寛文7年(1667)造立。

逆修の文字がうっすらと読みとれる

聖観音菩薩

聖観音菩薩の顔の横に「逆修」(ぎゃくしゅ)の文字がうっすらと読みとれるので、この石塔は逆修供養塔であることがわかる。逆修とは、生前に、自分の墓碑や卒塔婆を建てて供養し、死後に功徳を得る習わし。または、 生き残った老人が若くして死んだ者を慕って供養すること。自分の生前供養か、若くして他界した誰かの冥福を祈って建てたものと思われる。

名号塔

名号塔

観音逆修供養塔の前にある大きな笠付角型の石塔は江戸前期・寛文10年(1670)の名号塔(みょうごうとう)。高さ約2メートル。石塔のすべての面に、奉納した人々の名前がすきまなくびっしりと刻まれている。文字が小さく劣化が進んでいるので正確に判読するのは難しいが、その数、数百余人。

名号塔とは

「南無阿弥陀仏」など各宗派の名号を彫って供養した石塔のこと。「南無」とは帰依(きえ)を意味する。浄土教では「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来に帰依すれば、誰でも極楽浄土に生まれ変わることができると説かれている。

銘文

名号塔|南無阿弥陀仏の主銘

四面すべての最上部に「一千日廻向」と刻まれている。正面の上部に梵字・キリーク、中央に名号の「南無阿弥陀佛」。劣化が進んで読みとれない銘文も多い。各面の銘文については、『増林地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)越谷市市立図書館所蔵(pp91-92)によった。以下引用。

●正面(上部)梵字・キリーク(中央)南無阿弥陀佛 (下部)在家結衆七百余人/結衆寮坊主浄誉□心大徳/成蓮社辨誉上人大円和尚/願誉須放比丘/十誉久念比丘●裏面(上部)梵字・サク(中央)南無釈迦牟尼佛(下部)寛文拾庚戌暦十月十五日●左側面(上部)梵字・サ(中央)光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨●右側面(上部)梵字・サク(中央)願以此功徳平等施一切同發菩提心往生安樂國

十九夜塔

十九夜塔

名号塔の前に置かれている駒型の石塔は十九夜塔(じゅうくやとう)。江戸後期・嘉永6年(1853)造立。正面の上部に浮き彫りされている如意輪観音座像がうっすらと確認できる。その下に「十九夜塔」と銘が刻まれている。左側面には「嘉永六丑三月吉祥日」とある。
 
台石の正面には「西川組 講中」とあり、ふで・かつ・さき・こん・しま・きく・たか・くに・みね・かね・れん・たみ…など女性の名前が刻まれている。この十九夜塔は、西川組(※5)の十九夜講もしくは念仏講の女性たちが寄進した 月待供養塔 である。

※5 増森村の小名(こな=村を小分けした名)

月待供養塔とは

十九夜や二十三夜など特定の月齢の夜に集まり、月の出を待つ月待(つきまち)の行事を行なった講中(こうじゅう=仲間の集まり)で、供養のしるしに造立した塔のこと。月待塔(つきまちとう)とも呼ばれる。須賀氏の話によると「昭和30年ごろまでは、地元の女性たちが月に数回、ここのお堂(現在の森西川自治会館)に集まって、念仏講が行なわれていた」とのこと。同様に、「男連中による庚申待も行なわれていた」と、語ってくれた。

今回の取材にあたり、同行して解説してくださった須賀氏には心からお礼申しあげる。

場所と地図

森西川自治会館と共同墓地

住所は埼玉県越谷市増森277-4( 地図 )。郵便番号は 343-0012 。最寄駅は東武伊勢崎線の越谷駅。徒歩の場合は、越谷駅東口から市役所前中央通りを直進。新平和橋を渡って右折。元荒川左岸側の土手道(元荒川緑道)を 1キロほど下流に向かって歩き、越谷市立東中と埼玉県立越谷東高を過ぎた300メートルほど先。元荒川左岸土手のわきにある。徒歩だと越谷駅東口から40分かかる。バスの場合は、越谷駅東口から増林地区センター経由・総合公園行きに乗って「増林」バス停で下車。徒歩約15分。バスの乗車時間は10分ほど。駐車場はないが、墓地のはしに寄せて1台分ほど駐められるスペースはある。