越谷市増林小学校西の農道角地にある道しるべ付き馬頭観音塔を調べた。調査日は2023年10月10日。「馬頭観世音供養塔」と刻まれている路傍の石仏を写真とともにお伝えする。
馬頭観音塔
上の写真、前方左手は増林小学校。右前方にはリユース展望台が見える。このあたり一帯は、越谷でも数少なくなった水田耕地が広がっている。
正面
馬頭観音塔が建てられたのは江戸中期・安永3年(1774)。石塔型式は駒型。主銘は「馬頭観世音供羪(※1)塔」。向かって右に「安永二巳六月五日」、向かって左に「安永三午九月十九日」と刻まれている。
※1 「羪」は「美に良」。「養」の異字体。「馬頭観世音供養塔」と同意
左側面と右側面は道しるべになっている。
左側面
左側面には「右こしかや道」と刻まれている。「右に行くと越ヶ谷」の意。
右側面
右側面には「左ふとうそん道」と刻まれている。「左に行くと大相模不動尊」の意。
ずっと同じ場所にある
道しるべに刻まれているとおりに、この場所から「右」(西)へ道をたどっていくと「越ヶ谷」方面に出る。「左」(南)に行くと「大相模不動尊」(大聖寺)に至る。道しるべを兼ねたこの馬頭観音塔は、建立当初からずっとこの場所(またはこのあたり)にあったようだ。
249年間、この場所で、農民や人々の往来をずっと見守り続けてきたのかと思うと、感慨深い。
補足
馬頭観音(ばとうかんのん)とは、「馬の頭をもつ観音」の意。もともとは六観音・七観音のひとつとして仏教的に信仰されていたが、江戸中期以降、農耕や運搬などで馬を使用する人々から馬の守護神として信仰された。
この馬頭観音供養塔は、「安永二巳六月五日」と「安永三午九月十九日」の銘があることから、江戸中期の安永2年(1773)6月5日と、安永3年(1774)9月19日に死んだ農耕馬を供養するために建てられたものと思われる。
馬は農家にとって大切な働き手だった。
場所
道しるべを兼ねた馬頭観音供養塔がある場所は、増林小学校(越谷市増林2-2-512)から100メートルほど西の農道角地(T字路)、「止まれ」の標識の脇にある( 地図 )
参考文献
本記事を作成するにあたって、参考にした文献は以下に記す。
加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改定(越谷市立図書館所蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
外山晴彦『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)