越谷市増林にある護郷神社(もりさとじんじゃ)の歴史と石仏のほか、境内の風景などを現地で取材した写真とともにお伝えする。◇文字庚申塔◇三猿庚申塔◇石階・敷石供養塔◇法華経供養塔◇忠勇碑――など。場所は新方川に架かる宮野橋の北東500メートル。新方川と古利根川の中間に位置する。

歴史

護郷神社|越谷市増林

増林の鎮守・護郷神社(もりさとじんじゃ)。古利根川(ふるとねがわ)と元荒川に挟まれた増林のほぼ中央に位置している。かつては浅間神社(せんげんじんじゃ)と称された。江戸時代後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之八 新方領「増林村」の項に「浅間社 村の鎮守」とある。
 
大正2年(1913)1月29日、近隣の10社を合祀(※1)。郷土を守護する神々を祀る神社、という意味で、社名を「護郷神社」に改めた。

※1 合祀した神社は、増林下前(ましばやししもまえ)の村社・香取神社、根通(ねどおり)の香取神社・八幡神社、境地垣根添(きょうちかきねぞえ)の天神社・神明社、前波(ぜんなみ)の水神社、城之上(しろのうえ)の稲荷神社、花田屋敷前(はなたやしきまえ)の大六天社、長堀の浅間神社、中島前通(なかじままえどおり)の村社・稲荷神社~ 『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉(埼玉県神社庁)平成10年3月31日発行「護郷神社」p1222

石仏

石仏|護郷神社

敷地内には四基の石仏がある。

文字庚申塔

文字庚申塔

石塔の型式は角型。江戸後期・文政7年(1824)造立。正面の最頂部に「日月」が陽刻され、中央に「庚申塔」と刻まれている。左側面には「文政七甲申三月吉旦」とある。

三猿庚申塔

三猿庚申塔

江戸時代初期に多く見られる板碑型の庚申塔。江戸前期・貞享2年(1685)造立。正面中央に「奉造立庚申青面金剛」と刻まれ、横に「貞享二天十二月吉日」とある。下部に「三猿」(見ざる・聞かざる・言わざる)が陽刻されている。三猿の両脇に「施主」「敬白」の文字が確認できる。最下部には「与五兵衛」「太郎兵衛」「おくに」ほか、九人の名前が刻まれている。

法華経供養塔

法華経供養塔

法華経(妙法蓮華経)1,000部を読誦(どくじゅ)した記念に建てられた供養塔。石塔型式は笠付き角柱型。江戸前期・寛文元年(1661)造立。正面に「奉造立法華千部供養石塔一基」「寛文元年辛丑 今月吉日 敬白」、左側面に「緂誉道雪禅定門為菩提也」と刻まれている。

石階・敷石供養塔

石階・敷石供養塔

社殿前に石造りの階段(石階)を設置し、参道に敷石を敷いたことを記念して建てられた石階・敷石供養塔。石塔型式は角型。江戸後期・天保10年(1839)造立。正面に「石階 敷石 供養塔」と刻まれている。右側面には「天保十己亥 歳十一月 石工亀五郎作 當山現住太賢代」とある。

台石

台石

台石には、寄進者の村名と、15人名前が刻まれている。(中嶋村) 鈴木伊左ヱ門(増森)林源太郎・黒田嘉兵ヱ(西川)須賀弥平治・山崎七郎右ヱ門(増森新田)平林嘉右ヱ門・江河助右ヱ門(大吉)染谷七郎兵ヱ(向畑)石渡四郎兵ヱ・鈴木初右ヱ門・戸張久左ヱ門・鈴木八郎右ヱ門(川崎)岡田金右ヱ門・鈴木七郎ヱ門・木邑与八。

上記の石仏(文字庚申塔、三猿庚申塔、法華経供養塔、石階・敷石供養塔)に刻まれている銘は、読みにくい箇所も多々あったので、『増林地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)「護郷神社」(旧・浅間神社)を参照した。

境内の風景

境内地の四分の三は鎮守の杜に囲まれている。

鳥居周辺

鳥居

鳥居は石鳥居。〆縄が張られている。額束はない。鳥居の手前には花崗岩(かこうがん)の幟立(のぼりたて)。向かって右手に「村社護郷神社」と刻まれた社号標が立っているいる。

紀元二千六百年記念石柱

紀元二千六百年記念石柱

鳥居の左横、幟立のうしろに「紀元二千六百年」(※2)と刻まれた円柱型の石柱がある。

※2 昭和15年(1940年)が、神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたったことから、「紀元二千六百年記念行事」として、全国の神社で大祭が行なわれたほか、展覧会や体育大会など、さまざまな記念行事が各地で催された。この石柱も「紀元二千六百年」を記念して(昭和15年に)建てられたものと思われる。

集会所

集会所

境内の右手は集会所になっている。

参道

参道

鳥居をくぐると石畳の参道。参道の長さは約20メートル。敷石をはさんで、江戸中期・安永2年(1773)の御神燈一対と、安永8年(1779)の御手洗石(みたらいいし)が置かれている。

拝殿前

拝殿前

社殿は盛土された小高い丘の上に建てられている。拝殿前には参拝のための石段と、石段の両脇には、ステンレス製の手すりが設置されている。石段手前の両脇に立てられている一対の石柱は、昭和3年(1928)造立。

社殿

社殿

社殿は瓦葺きの拝殿と銅板葺きの本殿からなっている。大正2年(1913)の合祀のさい、根通(ねどおり)八幡神社の拝殿と本殿をここに移築した。

社殿左手

社殿の左手

社殿の左手は、木立に囲まれた丘状の地になっている。石鳥居の先に、二基の石碑などが見える。

忠勇碑・大砲の弾・殉職者慰霊碑

忠勇碑・大砲の弾・殉職者慰霊碑

左端の石碑は、乃木希典(※3)題による明治39年(1906)建立の忠勇碑。右端は、支那事変(日中戦争)と大東亜戦争(太平洋戦争)の殉職者烈士記念碑(殉職者慰霊碑)。増林村出身の戦死者の名が刻まれている。真ん中には戦利品と思われる大きな大砲の弾が置かれている。

※3 ※乃木希典(のぎまれすけ)1849~1912 。明治時代の軍人。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官となり、旅順を陥落させた(旅順攻略)。のち、学習院院長となる。在職中、明治天皇の死にさいし妻とともに殉死。

忠勇碑建立記念碑

忠勇碑建立記念碑

石鳥居に向かって左手に、明治39年(1906)に忠勇碑を建立したことを記念して造立された石碑が建てられている。この記念碑には、日露戦争開戦の意義などとともに、召集されて出兵した兵士たちの忠勇を広くたたえるために、この場所を「戦勝園」と名付け、忠勇碑を建立した旨が刻まれている。

参拝情報

護郷神社|越谷市増林

住所は埼玉県越谷市増林3199( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし ましばやし」。郵便番号は 343-0011 。場所は、新方川に架かる宮野橋の北東500メートル先。宮野橋から平方東京線に通じる小道の途中、右手に見える。周囲は田んぼ。駐車スペースはない。

引用文献

石仏や石碑の銘は、劣化や風化のために読みにくかったり判読できない箇所もあった。正確を期するために関係書籍や調査報告書と照らし合わせた。引用した文献を以下に記す。

引用文献

『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉(埼玉県神社庁)平成10年3月31日発行「護郷神社」pp1222-1223
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「清涼院跡と護郷神社」pp75-80
『増林地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)「護郷神社」(旧・浅間神社)越谷市立図書館所蔵