三ッ谷地蔵

名前の由来

三ッ谷地蔵|越谷市新越谷一丁目

三ッ谷地蔵の名前の由来について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、次のように述べている。

赤山街道に沿って南流してくる横堀(よこぼり)が、西から流れてくる出羽堀に合流する地点の横堀に、「三ツ矢橋」(みつやばし)と呼ばれる橋が架かっていた。その橋の近くにあるので「三ッ谷地蔵」と呼ばれた。
 
「三ッ谷」(みつや)とは、谷中村(やなかむら)にあった集落の名で、現在の谷中一丁目あたりにあった。

※4 加藤幸一「出羽地区石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)42頁

言い伝え

三ッ谷地蔵には、次のような言い伝えが残っている。
 
「谷中村(やなかむら)三ッ谷集落の旧家に、覚心法師という僧がいたが、諸国を遊説中、(江戸中期)元文2年(1737)に悪人に襲われて死去した。
 
この旧家では、覚心法師の供養塔を屋敷内に建立したが、不幸が重なったために、三ツ矢橋(みつやばし)の人通りの多い十字路に移して祀った。
 
以来、地元では、この供養塔を『三ッ谷地蔵』と呼び、娘が嫁ぐとき、赤ん坊が生まれたとき、子供の帯解き祝いには参詣を欠かさなかったという」

三ッ谷地蔵の造立者

三ッ谷地蔵の造立年は、江戸中期・享保6年(1721)。覚心法師が死亡したとされるのは、16年後の元文2年(1737)。これについて、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は次のように述べている。

言い伝えでは、覚心法師が死亡したあとに墓石(供養塔)として(三ッ谷地蔵が)造立されたことになっているが、享保6年(1721)に覚心法師自身が願主としてこの地蔵を造立し、その後、元文2年(1737)に悪党に襲われて亡くなったのであろう。

※5 加藤幸一「出羽地区石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)42頁

場所

三ッ谷地蔵|越谷市新越谷

三ッ谷地蔵の場所は、越谷市新越谷一丁目の出羽堀と赤山街道が交差する角地。はま寿司 越谷七左店の北隣( 地図

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「出羽地区石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『越谷市の史蹟と伝説』越谷市教育委員会/越谷市文化財調査委員会(昭和35年4月15日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)