越谷市神明町の薬師堂・神明二丁目集会所にある庚申塔や廻国巡礼塔など石仏や石塔を調査した。当日の様子を写真とともにお伝えする。場所は、神明橋西詰から元荒川の上流に向かって、越谷流山線を200メートルほど進んだ左脇にある。

薬師堂

薬師堂・神明二丁目集会所|越谷市神明町

調査したのは 2023年7月15日。まずは薬師堂について簡単に触れておく。
 
江戸時代、薬師堂は、清光坊(せいこうぼう)と称された寺院だった。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「神明下村 清光坊 村持、本尊薬師を置く」(※1)と記されている。

※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「神明下村」151頁・152頁

越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「ここ(薬師堂)は、江戸時代に「清光坊」(せいこうぼう)と呼ばれた薬師如来を祀る神明下村(現・神明町)の持ち分だった寺院跡地である。昭和9年(1934)3月の彼岸の中日の夜に、本尊の薬師如来像とともに本堂が全焼している」(※2)と述べている。

※2 加藤幸一「出羽地区の石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧神明下村」(4)薬師堂、46頁

今は、本堂はなく、神明二丁目集会所と墓地になっている。

石仏と石塔

それでは薬師堂の石仏と石塔を見ていく。

入り口前の石仏

石仏群|薬師堂(越谷市神明町)

入口前の三角地帯に、石仏と石塔のほか墓標などが16基、まとめて置かれている。

普門品供養塔

普門品供養塔

普門品(ふもんぼん)供養塔。江戸末期・安政2年(1855)造塔。石塔型式は山状角型(兜巾型=ときんがた)。正面の主銘は「普門品五萬巻供養塔」。脇銘は「天下泰平」「五穀成就」

普門品とは、

法華経の経典・観世音菩薩普門品(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の別称。観音経とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが、普門品供養塔。

崎西庄は騎西庄?

左側面は「安政二□□」「八月吉日」。右側面には「武州埼玉郡崎西庄」(※3)「神明下村」「講中」とある。
 
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「この石塔に刻まれた『崎西庄』とは『騎西庄』のことであろうか。新編武蔵風土記稿に『七左衛門村は騎西庄と云う』と書かれている」と述べている。

※3 加藤幸一「出羽地区の石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧神明下村」(4)薬師堂、47頁

『新編武蔵風土記稿』「七左衛門村」の項に、「七左衛門村は騎西庄という。当村は寛永の頃に神明下村の庄屋(村長)・七左衛門が開墾した」(※4)と記されていることから、この普門品供養塔に刻まれている「崎西庄」は、加藤氏のいうように、「騎西庄」のことかもしれない。

※4 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「七左衛門村」152頁

千地蔵塔

千地蔵塔

地蔵菩薩を主尊とした千地蔵塔。江戸中期・享保11年(1726)造塔。石塔型式は舟型(光背型)。最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字・カ。中央に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
 
脇銘は「奉供養為千地蔵二世安楽」「享保十一丙午二月吉祥日」「願主 西念」。台石には「神明下」「男女」とある。
 
千地蔵」とは、地蔵菩薩から多くの功徳を得ようと、「千」を付けたものと思われる。もしくは、千回拝んだのと同じ功徳が得られる、の意かもしれない。

阿弥陀如来像庚申塔

阿弥陀如来像庚申塔

阿弥陀如来を主尊にした庚申塔。江戸前期・寛文5年(1665)造塔。石塔型式は舟型(光背型)。正面中央に阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。
 
脇銘は「奉待庚申講人数寛文五乙巳天」「記二世安楽之攸」(攸=ゆう=は所と同意)「八月廿三日」「欽言」。そのほか、寄進者8人の名前が確認できる。

参考|越谷市内の阿弥陀如来像庚申塔

阿弥陀如来を主尊とした庚申塔

阿弥陀如来像庚申塔(左)薬師堂(右上)十王堂(右下)西教院

越谷市内には、阿弥陀如来像を主尊とした庚申塔が 4基ある。そのうち三基は、造形が似ていてるばかりではなく、造立された年が近く、造立された場所も近い。薬師堂の庚申塔もそのうちの一基。

  1. 薬師堂(寛文5年)舟型…越谷市神明町
  2. 十王堂(寛文3年)舟型…越谷市宮本町
  3. 西教院(寛文3年)舟型…越谷市西新井

越谷市郷土研究会・秦野秀明氏は、「(この)三基は、同一人物の石工による作品であると推測する」(※5)と述べている。

※5 秦野秀明(2015)「越谷市内の寛文年間造立『阿弥陀如来像庚申塔』三基」

※5 三基の阿弥陀如来像庚申塔については、秦野氏が2015年に発表した「越谷市内の寛文年間造立『阿弥陀如来像庚申塔』三基」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/150528k_a_k_hh.pdf

六十六部廻国塔

六十六部廻国塔

六十六部廻国塔(ろくじゅうろくぶ・かいこくとう)。江戸中期・正徳4年(1714)造塔。石塔型式は笠付き角柱型。正面の主銘は「奉供養大乗妙典六十六部成就処」。脇銘は「法師忍可」「田邑武左衛門」

六十六部廻国塔とは

全国66か所の寺院(霊場)を巡礼して、書写した法華経を一部ずつ奉納した記念に建てられた供養塔のこと。六十六部供養塔とも呼ばれる。

側面

六十六部廻国塔|側面

左側面は、中央に梵字文、側面に「正徳四午年二月吉日」「武州崎玉郡神明下邑」、右側面には「南無大師遍照金剛」(※6)「三界萬霊有無□縁」「信心檀那二世安楽」「敬白」とある。

※6 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうんごう)とは、南無大師(弘法大師・空海)に帰依する、の意。

百堂巡礼塔

百堂巡礼塔

百堂巡礼塔。江戸中期・元禄13年(1300年)造塔。石塔型式は特殊型(笠付き角型風)。最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字・カ。中央に六地蔵が上下三体ずつ陽刻されている。
 
銘文は「奉供養百堂巡礼為二世安楽」「元禄拾三庚辰年」「拾月吉祥日」「本願善□」「神明下村」「同行卅七人」。卅七人は三十七人と読む。
 
百堂巡礼とは、農閑期に村人が講を作り、村中および近隣のお堂百箇所を巡拝し、念仏を唱える行事のこと。百堂を巡拝し終え、村人の願望が成就された記念に建てられたのが百堂巡礼供養塔。(※7)

※7 (出典)庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)「百堂念仏塔」112頁

境内の石塔