越谷市宮本町二丁目にあるスーパー銭湯・越谷健美の湯の北側50メートル、住宅地の一画に堂舎がある。通称、薬師堂と呼ばれているが、江戸時代は薬王寺と称された寺院の跡地である。裏手は墓地。敷地の一部は宮本町二丁目集会所になっていて、堂舎の脇には稲荷神社も祀られている。境内地には、不動明王と刻まれた大きな石塔や庚申塔などの石仏が置かれている。不動明王は薬王寺の本尊だった。

歴史

薬師堂|越谷市宮本町二丁目

歴史は古く、かつては、瑠璃山東光院と称された真言宗の寺院だった。観音堂が残されているので地元では観音堂と呼ばれている。創建はつまびらかでないが、安土桃山時代の文禄元年(1592)に、長廣(ちょうこう)という僧によって中興(ちゅうこう)されたと伝えられている。『新編武蔵風土記稿』四町野村の項に、「薬王寺 真言宗、瓦曽根村照蓮院門徒、瑠璃山東光院と号す、文禄元年、長廣という僧・中興せり、本尊不動を安置す、薬師堂」とある。

境内の風景

薬師堂|越谷市宮本町二丁目集会所

ブロック塀で囲まれた入口を入ると、左手は宮本町二丁目集会所になっている。境内の中央に敷かれた石畳の10メートルほど先に瓦葺きの堂舎(観音堂)がある。堂舎に向かって左手は稲荷神社。参道の右脇にはトタン屋根囲いの中に四基の石仏と御手洗石(みたらいいし)が並べられている。そのうしろに自然石の大きな石塔がみえる。

薬師堂

薬師堂|越谷市宮本町二丁目集会所

堂舎には、本尊の薬師如来像が安置されている。『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)薬師堂の項に「本尊は秘仏で、本尊の薬師を見ると目がつぶれるとの伝えがある」と記されている。本尊の両脇には十二神将が六体ずつ配されている。十二神将(じゅうにしんしょう)は、薬師如来に仕える十二の守護神で、薬師如来の経典を読んだり信じる者をも守るといわれている。

めめ絵馬

薬師堂|越谷市宮本町二丁目集会所

本堂の扉の上に、平仮名の「め」が二つ向かい合わせに書かれた絵馬が30枚ほど奉納されている。どの絵馬もかなり古い。これは、薬師如来に眼病平癒を願って奉納された「向かい目」と呼ばれるもので、「めめ絵馬」とか「向かい目絵馬」と呼ばれている。奉納されている「めめ絵馬」は、この地区(現在の宮本町。かつての四町野村)の薬師信仰を伝える貴重な史料といえる。

石仏

石仏

石畳の右脇、トタン屋根囲いの鞘堂(さやどう)の中に、三基の庚申塔と六地蔵塔、御手洗石(みたらいせき)が一基、並べられている。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

向かって右端は青面金剛像庚申塔。江戸中期・宝暦6年(1756)造立。石塔型式は駒型。正面に日月・一面六臂の青面金剛像が陽刻されている。左側面には「宝暦六丙子」「梵字・ウーン 奉供養庚講中」と刻まれている。梵字「ウーン」は青面金剛を示す種子(しゅじ)。台座の正面に三猿が陽刻されているが、台座と上の石塔との色合いがやや異なっている。

六地蔵塔

六地蔵塔

向かって右から二番目は六地蔵塔。江戸中期・寛政9年(1797)造立。石塔の型式は頭部山状角柱型。裏面に「寛政九丁巳年四月吉日」、台石に「野尻組(※)中」とある。

※ この地区(現在の宮本町二丁目)は、かつて四町野村(しちょうのむら)の野尻組(のじりぐみ)が管理していた。四町野村には、野尻組のほか、押切組(おっきりぐみ)と御縄先組(おなさきぐみ)という三つの小名(こな=村を小分けした区画)があった。

六地蔵塔

石塔の正面・左側面・右側面に、二体ずつ地蔵像が陽刻されている。正面は、宝珠と錫杖(しゃくじょう)を持つ地蔵と柄香炉を持つ地蔵。左側面は、天蓋を持つ地蔵と数珠を持つ地蔵。右側面は、幡(はた)を持つ地蔵と合掌する地蔵。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

右から三番目は青面金剛像庚申塔。江戸後期・文政10年(1827)造立。石塔型式は頭山状角柱型。正面に、日月・一面六臂の青面金剛像・邪鬼が浮き彫りされている。左側面には「天下泰平国土安全」と刻まれ、右側面には「文政十丁亥年十一月」とある。台座の正面に三猿が陽刻されているが、この台座と上の石塔の色合いも不自然。

青面金剛像庚申塔二基の台座

庚申塔の台座

右端の青面金剛像庚申塔と右から三番目の青面金剛像庚申塔の台座について『出羽地区の石仏』(平成15年度調査/平成28年4月改訂)で、著者の加藤幸一氏は「右端の台石は本来は右から三番目の台石であった。右から三番目の台石は本来は右端の台石である。」と指摘されている。二基の石塔と台石との色合いが不自然なのは、そもそも別の台石の上に置かれているためであった。

文字庚申塔

文字庚申塔

左端の石塔は文字庚申塔。江戸後期・文化6年(1809)造立。石塔型式は頭部山状角型。正面の上部に日月が陽刻、中央に「庚申」の二文字が大きく刻まれ、台座には三猿が浮き彫りされている。左側面の主銘は「天下泰平国土安全」、脇銘に「野尻組 講中」とあり、講員七人の名前がみえる。右側面には「文化六己巳年十一月」と刻まれ、講員五人、世話人二人の名前がある。

御手洗石

御手洗石

御手洗石(みたらいいし)は江戸後期・嘉永3年(1850)の造立。正面に「奉納」、裏面に「嘉永二庚戌年」「越谷宿 石工 長兵衛作」と刻まれている。左側面には、願主「比丘尼」と七人の名前、右側面には八人の名前が刻まれている。比丘尼(びくに)は、出家して正式に僧となった女性。尼僧(にそう)のこと。

『越谷試金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)には、薬師堂には、このほかに「野尻組講中」と刻まれた、江戸中期・宝暦10年(1761)の青面金剛像庚申塔(笠付型)の存在が記載されているが、現在、薬師堂の境内にはそれらしき庚申塔は見あたらない。

「不動明王」文字塔

「不動明王」文字塔(表面)

鞘堂のうしろに大きな自然石の石塔がある。明治27年(1894)造立の「不動明王」文字塔だ。正面の上部に横書きで「成田山」、中央の主銘は縦書きで「不動明王」、脇銘に「照勤」と刻まれている。かつてこの場所にあった薬王寺の本尊が不動明王だった名残を伝えている。
 
台石には「野尻講」と大きく刻まれている。野尻組と刻まれた台石を含む石塔の高さは1メートル90センチ超。その下の石垣の台石を含めると全高は2メートル70センチ近くにもなる。不動明王の偉大な法力(ほうりき)を示そうとしたものだろうか。

「不動明王」文字塔(裏面)

裏面には「明治二拾七年十二月建之」の文字と奉納者の名前が刻まれている。

野尻稲荷神社

野尻稲荷神社

観音堂を正面に見た左側に小さな神社がある。最近、再建されたか建立されたと思われる新しい木造朱塗りの鳥居。社は瓦葺きのこぢんまりした社殿であるが、庇(ひさし)に「正一位 野尻稲荷神社」とある石の額が掲げられている。この稲荷社は野尻組(現在の宮本町二丁目)の鎮守社だった。

神額|野尻稲荷神社

『新編武蔵風土記稿』(四町野村)薬王寺の項には「稲荷社」は見えないので、『新編武蔵風土記稿』が編さんされた江戸後期・文化文政時代以降に、野尻組が独自に鎮守社として勧請したものと思われる。または、地元の名主の敷地内にあった屋敷神をこの場所に移したものかもしれない。

野尻墓地

野尻墓地

観音堂の裏手は野尻墓地と呼ばれる墓地になっている。敷地はそれほど広くはない。江戸時代の墓石もかなりあるので、薬王寺時代からの檀家の墓であろう。聖観音をはじめ如意輪観音や地蔵菩薩などが陽刻された墓石も目立つ。上の写真は江戸前期・天和2年(1682)建立の聖観音が浮き彫りされた女性の墓石。

交通案内

観音堂(越谷市宮本町二丁目)

観音堂(宮本町二丁目集会所)

住所は埼玉県越谷市宮本町2-183( 地図 )。郵便番号は 343-0806 。地図では「宮本町二丁目集会所」または「野尻稲荷神社」で表示されている。最寄駅は東武伊勢崎線の越谷駅。越谷駅西口から宮子通りを徒歩で約15分。目安は健美の湯。健美の湯の北側50メートルの場所にある。バスの場合は、越谷駅西口から朝日バスまたは国際興行バスで「宮本町2丁目」停留所(健美の湯の前)で下車。徒歩約2分。専用駐車場はない。