稲荷社|個人宅
続いての調査は個人宅内。旧家の敷地内にある稲荷社をたずねた。住所は増林。越谷市立東小学校の北側。家主にあいさつをしたあと、稲荷社に案内していただいた。
シャガの花
両部鳥居(りょうぶとりい)をくぐるとシャガの花が出迎えてくれた。
庚申塔を調査
境内の庚申塔を調査。この石塔は道しるべも兼ねているので、側面に刻まれた銘を藤川調査員が入念に読みとっていく。
道標付き「青面金剛」文字庚申塔
石塔の形式は山状角型。江戸後期・寛政12年(1800)造立。正面中央に「青面金剛」と刻まれている。最頂部には「日月」が陽刻されている。左側面には「寛政十二庚申十一月吉日」とある。
三猿
最下部には、烏帽子をかぶった三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が刻まれている。
道しるべ
左側面には「左吉川道増林村西川」とある。「左、吉川道。増林村西川」というのは、この庚申塔を造立した場所は「増林村西川」で、左に進むと吉川に通じる、という意味。
右側面に「右ばゝハたし」「のだ道」と刻まれている。「右、ばゝハたし(ばば渡し)」「のだ道」(野田道)とは、右に進むと、ばば渡し(ばば渡し場)や野田に通じる、ということを示す。
この石塔は、古利根川に架かる「ばば渡し」などに行くための道しるべを兼ねた庚申塔です。もともとは、別の場所にあったものをここに移されたと思われます。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)
「辨才天」文字塔
境内の一画に「辯才天」と刻まれた自然石の文字塔もあった。造立年代は不詳。
移動
家主にお礼を言って、次の調査地に向かった。
庚申塔|個人宅
次に訪れたのも個人宅。森西川自治会館(越谷市増林)の東側にある旧家で、家主にあいさつをし、撮影許可をとったうえで、敷地内の庚申塔を調査した。
道標付き猿田彦大神文字庚申塔
石塔の形式は山状角型。江戸末期・文久3年(1863)造立。正面の主銘は「猿田彦大神」。最頂部に「日月」が陽刻されている。
三猿
最下部には三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が浮き彫りされている。
脇銘|左側面
左側面には、「文久三癸年」「亥九月吉日」「西川」と、寄進者の名前が刻まれている。右側面の下にも寄進者の名前が見える。
道しるべ|右側面
右側面は道しるべになっている。「左 吉川流山 のた今上 道」とある。「左吉川流山道」は、左に進むと、吉川・流山に通じる、ということを示している。
「のた」は野田のこと。「今上」は「いまがみ」と読み、かつて江戸川にあった渡し場です。現在も野田市今上の地名が残っています。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)
石仏調査終了
調査はこれで終了。予定していた 7箇所・18基の石仏・石塔は、すべて確認できた。
新方川関連の記事
越谷市の大袋・桜井・新方・増林地区を流れる新方川(にいがたがわ)。古くは千間堀(せんげんぼり)と呼ばれた。定使野橋から昭和橋まで新方川に架かる十本の橋を巡りながら橋の名前の由来や歴史をひもといた。
2021年7月8日・木曜日。越谷市郷土研究会主催の史跡巡りに同行。定使野橋(じょうつかいのはし)を起点に下千間堀(現在の新方川)の流路をたどりながら史跡や神社など計18箇所を巡った。越谷市最古の青面金剛像庚申塔や三猿庚申塔など貴重な石仏も見学した。
謝辞
本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげます。
参考文献
調査にあたって、石仏や石塔の劣化や風化によって碑文が読みにくかったり、判読できない箇所も多々あった。正確を期するために、本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書と照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。
加藤幸一「花田・増林地区の石仏」平成16・17年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『神社の見方』小学館(2002年8月10日発行)