勝林寺

石塔群|山門側

石塔群

ブロックで区画された墓地の手前(山門側)に、5基の石塔・墓標と地蔵菩薩立像が並べられている。調査対象は 3基。

六十六部廻国塔

六十六部廻国塔

六十六部廻国塔。石塔の形式は笠付き角型。江戸中期・享保21年(1736)。六十六部廻国塔とは、全国66か国の寺院を巡礼して大乗妙典(法華経)を奉納した記念に建てられた供養塔のこと。
 
主銘は「奉納大乗妙典六十六部日本廻国願成就供養塔」、脇銘は「天下泰平 享保二十一丙辰稔(※3)武州崎玉郡新方領」「国土安全 二月吉祥日 増林村 願主外伝祖格」。

※3 「稔」は「年」のこと。

普門品供養塔|文政8年

普門品供養塔|文政8年

江戸後期・文政8年(1825)造塔の普門品(ふもんぼん)供養塔。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「普門品供羪塔」。「羪」は「養」の異字体。側面の脇銘は左が「文政八乙酉歳」、右が「九月十有八日」
 
台石の正面に「中組講中」(なかぐみこうじゅう)と刻まれている。中組は増林村中組のこと。この石塔は増林村中組の観音講中によって建てられたものと思われる。

普門品とは、

法華経の「観世音菩薩普門品」の別称。観音経とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが、普門品供養塔。

六十六部及び十三仏供養塔

六十六部及び十三仏供養塔

一見、宝篋印塔のようにも見えるが、よく見ると、笠の下に六十六部供養塔、その下に十三仏供養塔が積み上げられている。笠の上は宝篋印塔の一部かもしれない。

加藤氏

六十六部と十三仏の二つの石塔は、まったく別のものです。もともとは別々にあったものが、後世になって、いっしょに積み重ねられ、ここに移されたものと思われます。

二基の銘文

二基の石塔が積み上げられている

六十六部供養塔は、江戸中期・正徳元年(1711)造立。正面に「奉納大乗妙典 六十六部 施僧」などの文字が刻まれている。左側面には「正徳元辛卯年九月稔日」、右側面には寄進者の名前がみえる。「稔日」(ねむじつ)とは「二十日」のこと。
 
十三仏供養塔は、江戸中期・明和6年(1769)造立。正面の主銘は「十三仏供養」、脇銘は「明和六年乙丑年」「六月吉日」。側面には施主の名前などが刻まれている。「明和六年乙丑年」の「乙丑」(きのとう)は「己丑」(つちのとうし)の誤り(※4)。

※4 加藤幸一「増林地区の石仏」平成16・17年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)「勝林寺」六十六部及び十三仏供養塔、81頁

石塔群|本堂側

石塔群

本堂側の墓地の手前には、石塔2基、墓標1基と、地蔵菩薩立像が3体、並べられている。調査対象は 2基の石塔。

大乗妙典供養塔

大乗妙典供養塔

大乗妙典供養塔。江戸中期・享保16年(1731)造立。石塔型式は笠付き角型。主銘は「奉読誦大乗妙典一千部衆生或世了脱出所」。脇銘は「享保十六辛亥年」「三月吉旦」「当寺九世」
 
勝林寺の19代目・住職が、大乗妙典を一千回、独誦(どくじゅ)した記念に建てた供養碑。大乗妙典とは、人々を迷いから悟りの世界に導いてくれる経典で、一般的には法華経(ほけきょう)のことをいう。

普門品供養塔

普門品供養塔

普門品(ふもんぼん)供養塔。石塔型式は角型。江戸後期・享和3年(1803)造立。正面の主銘は「普門品供羪」。「羪」は「養」の異字体。側面の脇銘は「享和三龍次癸亥年十月十八日」「当山現住叡山敬建」。勝林寺の19代目・住職が建立した(※5)供養塔。

※5 加藤幸一「増林地区の石仏」平成16・17年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)「勝林寺」大乗妙典供養塔、80頁に「この普門品供養塔を造立した勝林寺第十九世の大仙叡山が残した直筆の古文書が当寺(勝林寺)に保管されている」とある。

台石の銘

台石

台石には、判読できるだけで 24の村名・町名が刻まれている。
 
伊原村・越谷町・大沢町・大里村・七左新田・越巻村・萩嶋村(荻嶋村の誤記)・恩間村・大川戸村・赤岩村・川藤村・後新田・金杉村・田嶋村・上内川村・八子村・鍋小路村・船渡村・大杉村・増林村・佐藤村(※6)・太伯甚内・広嶋村・十一軒村

※6 加藤氏は、「佐藤村」は、現・吉川市内の「加藤村」の誤りではないか、としている。

加藤氏

当時、勝林寺が、現在の越谷市・松伏町・吉川市にまたがる広範囲の地域から信仰を受けていたことがわかります。

庚申塔群

庚申塔群

境内の裏手へ移動。ブロック塀脇に庚申塔などの石塔が片づけられている。