出羽堀樋門
出羽堀樋門に到着。出羽堀の水を綾瀬川に落としている。樋門から出羽堀(※2)の上流を望む。前方に、往路で立ち寄った西浦橋が小さく見える。
※2 西浦橋から下流は新しく造られた流路なので新出羽堀と呼ばれている。
集合写真撮影
出羽堀樋門から50メートルほど先にある綾瀬川樋管の前で、案内役の加藤氏を囲んで集合写真を撮った。
綾瀬川左岸|遊歩道
綾瀬川左岸の遊歩道を進む。次に見学するのは、縄文時代の丸木舟発掘場所。
丸木舟発掘場所
縄文時代の丸木舟が発掘された場所に到着。
昭和4年(1929)の春、綾瀬川の川底さらいをしているときに、新川(古綾瀬川)と綾瀬川の合流地点の中央で、川底から丸木舟が発見された。
発見場所は越谷市と草加市のちょうど中間。珍しそうなので引き上げることになり、草加と越谷のどちら側に引き上げるかが問題になったが、作業がしやすいということで草加市が引き上げた。
後年、平成13年(2001年)、この丸木舟の分析を行なったところ約5300年前、縄文時代前期のものであることが分かった。
加藤氏の解説
引き上げ当時は、5000年以上のものとは誰も想像できなかったと思われます。現在は綾瀬川の大幅な拡張で、当時の発見場所は今では越谷寄りになっています。その流れ注いだ綾瀬川の中ほどに丸木舟が発見されたのです。越谷側の古綾瀬川(今の新川)から流れてきたのかもしれません。もし越谷側が引き上げていたら丸木舟は越谷市の文化財になっていたでしょう。
現在、その丸木舟は「綾瀬川(旧新田村)出土丸木舟」(あやせがわ〔きゅうしんでんむら〕しゅつどまるきぶね)の名称で、草加市の有形文化財(歴史資料)に指定され、草加市歴史民俗資料館の展示室に収められている。
(参考)丸木舟発見場所|加藤氏作図
丸木舟発見場所の図解を加藤氏から提供していただいた。加藤氏が描いたこの図をみると丸木舟の発見された場所が明確に分かる。
新川(古綾瀬川)流路跡
綾瀬川の北側を綾瀬川と並行して東南から東に流路を変えて流れてきた新川(古綾瀬川)は、そのまま直流して斜めに綾瀬川左岸に流れ込んでいた(この流路は土手の設置によって失われてしまった)
案内役の加藤氏が、新川と綾瀬川の合流地点に向かって、その失われた新川の流路跡を実際に歩きながらたどって示してくれた。
綾瀬川と別れを告げる
丸木舟発掘場所をあとに、綾瀬川左岸の遊歩道を50メートルほど歩いたころで、土手道(遊歩道)を下り、綾瀬川と別れを告げて、右へ進む。
槍先
変則のY字路に出た。右手は新川(古綾瀬川)。ここは綾瀬川と古綾瀬川(現・新川)にはされまた三角地帯になっている。
この場所は、槍のような三角形の土地になっていることから「槍先」(やりちゃき)と呼ばれています。
槍先の位置図
上の図は案内役の加藤氏が提供してくれた槍先の位置図。綾瀬川と古綾瀬川(新川)に挟まれた三角地帯になっているのがよく分かる。
帰途
槍先をあとに帰途に着く。新川(古綾瀬川)右岸沿いの市道を歩いて、大間野村旧中村家住宅に戻る。
帰着
大間野村旧中村家住宅の長屋門に到着。
江戸時代の名主(※3)の家でしたので、長屋門は開かずの門で、ふだんは閉まっていました。門は偉い人が来たときだけ開けられました。
※3 名主(なぬし)…村を治める人。今でいう市長さん(加藤氏談)
解散
長屋門前で出迎えてくれた越谷市郷土研究会・渡邊会長のあいさつ。続いて案内役をつとめた越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏のあいさつのあと、11時20分、解散となった。
県民の日イベント風景
中庭では、「県民の日 大間野村旧中村家住宅 開館記念イベント」が行なわれていた。昔の遊びや力比べなど、たくさんの親子連れでにぎわっていた。
後記
今回は、「石仏の楽しみ方教室」の案内役・加藤氏のアシスタントとして同行したが、参加者のみなさん、見学する先々で、メモを取ったり、写真を撮ったり、加藤氏に質問をしたりと、たいへん熱心だった。個人的にも知らなかったことや勘違いしていたことを教えられ、得るところが多かった。