出羽堀跡|暗渠
丁字路を左に曲がって右に折れる。住宅の間が暗渠(あんきょ)になっている。暗渠(※1)の下は出羽堀跡。
※1 暗渠(あんきょ)とは、蓋をされて外からは流れが見えなくなってしまった川や水路のこと。土の中に埋められてしまって水路跡だけが残っている場合も暗渠と呼ばれている。
茜通りとぶつかる
暗渠を抜けると茜通りにぶつかった。
茜通り
茜通りは、もともとは田んぼの不要な水を流す悪水堀(悪水路)でした。堀の両側には堀に沿って二本の道がありました。その堀に蓋をかぶせて暗渠(あんきょ)にし、中央分離帯の役割をもたせ、両脇の道を整備してつくられました。蒲生茜町(がもうあかねちょう)を通る道なので、越谷市によって「茜通り」と名付けられました。ちなみに現在も茜通りの暗渠には悪水路が通っています。
槍先通り
暗渠を抜けて右へ。槍先通り(岩槻道)を進む。「槍先通り」の読み方は「やりっちゃきどおり」(Yaritchaki dori)。「槍先道」(やりさきみち/やりちゃきみち)などとも呼ばれている。
出羽堀跡|暗渠
左手の暗渠は出羽堀跡。樹木などが植えられて緑地になっている。前方に緑道が見えてきた。
西幹排緑道|出羽堀跡
槍先通り(岩槻道)脇の緑道は、出羽堀跡を暗渠にして整備された西幹排緑道(にしかんぱいりょくどう)。岩槻道から出羽堀跡(西幹排緑道)に入って、道なりに進む。
西町公園|高架下1号公園
西幹排緑道(出羽堀跡)をいったん下りて、東武伊勢崎線高架下にある西町公園(高架下1号公園)を通り抜ける。
この高架下も出羽堀跡です。
西町公園(高架下1号公園)を通り抜けると、左手前方に、小さな神社が見えてきた。
蒲生西町久伊豆神社
神社に到着。この神社は蒲生西町の鎮守・久伊豆神社。地元では小鎮様(しょうちんさま)とも呼ばれている。
石塔群
参道に、石塔が三基、力石(ちからいし)が二個、並んでいる。石塔は向かって右端から青面金剛像庚申塔・文字庚申塔・山王権現(さんのうごんげん)文字塔。
案内役の加藤氏が、庚申塔の像容(ぞうよう)について解説してくれた。
庚申塔
一般的な庚申塔には、日月(じつげつ)青面金剛(しょうめんこんごう)二鶏(にけい)三猿(さんえん)青面金剛に踏まれた鬼(おに)が刻まれています。
そのほか、「青面金剛は腕が六本で、中央の手が合掌している合掌型(がっしょうがた)と、右手に剣を持ち、左手に「ショケラ」と呼ばれる女人を持つ剣人型(けんじんがた)に大別できる」「『庚申塔』『青面金剛』などの文字を刻んだ庚申塔もある」と、加藤氏が話をしてくれた。
三猿
庚申塔の下には三猿(さんえん)と呼ばれる三匹の猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が刻まれていますが、三猿があれば庚申塔と思って間違いありません。
庚申塔および庚申信仰については加藤氏が「越谷市内のさまざまな庚申塔」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/487.pdf
西幹排緑道|出羽堀跡
しょうちん様(蒲生西町久伊豆神社)をあとに、再び西幹排緑道(出羽堀跡)に入る。道なりに行くと右手に旧・蒲生村の鎮守・久伊豆神社が見えた。蒲生久伊豆神社は復路で立ち寄るので、そのまま進む。右手前方、岩槻道(槍先通り)の路傍に石塔が見えた。
成田山道標石塔
石塔の正面中央に「成田山」と刻まれている。下部に「槐新田(さいかちしんでん)江 一里」、左側面に「越ヶ谷江一里」、右側面に「草加江一里」とある。この道しるべが建てられたのは江戸末期・元治2年(1865)。地元では成田山信仰がさかんだったことがうかがわれる。
本来は別の場所にあった
加藤氏が、石塔の正面にまわって、解説をしてくれた。
この道しるべは、本来は、ここから綾瀬川を下流に300メートルほど下(くだ)った蒲生橋そばの日光街道と岩槻道との追分にあったと思われます。
追分から北方一里先に越ヶ谷宿、南方一里先に草加宿、岩槻道を進んで一里先で槐新田(さいかちしんでん)に到達しました。槐新田は今の新川町のあたりと思われます。
移動|綾瀬橋へ
道しるべを見学したあと、引き続き、西幹排緑道(出羽堀跡)を進む。50メートルほど歩くと、足立越谷線(県道49号)にぶつかった。右手に綾瀬橋が見える。
綾瀬川の土手に出る
綾瀬越谷線を渡って、綾瀬川左岸の土手下の道を歩く。暗渠になっているこの道は出羽堀跡。土手に出る。
この土手の左下(フェンスの下)に出羽堀跡が残っています。土手の右手、綾瀬川の左岸沿いを通っているのは岩槻道です。