越谷市大間野町の鎮守・三社大神社(さんしゃだいじんじゃ)。場所は、草加バイパス(国道4号)大間野交差点から下り線側を南に40メートルほど歩いた歩道脇。明治4年まで大間野の鎮守だった久伊豆・稲荷・厳島の三社を合祀して三社大神社とした。境内には、天神・八坂・榛名の三祠堂があるほか、疱瘡神(ほうそうがみ)の石と呼ばれてきた石仏などが置かれている。
歴史
越谷市の南端に位置する大間野町。綾瀬川を境に草加市に接している。『新編武蔵風土記稿』大間野村の項には「七左衛門村枝郷 大間野村」「大間野村は七左衛門村の分村にて」とある。大間野村は七左衛門村(しちざえもんむら)の枝郷(えだごう)だった。枝郷とは、新田開発などで元の村(本郷・元郷)から分かれた新しい集落のこと。
かつて(江戸前期・寛永年間ごろ)大間野村は、上手組(うわてぐみ)・向居組(むかいぐみ)・川東組(かわひがしぐみ=通称東組)・一の網組(いちのあじぐみ)・川西組の五組に区分され、それぞれの組に鎮守社が祀られていた。上手組・向居組は稲荷神社、川東組は久伊豆神社、一の網組は弁天社(明治初年に厳島神社と改称)、川西組は天神社。
明治4年(1871)に、稲荷社・久伊豆社・厳島社を合祀。天神社の境内に祀って三社大神社(さんしゃだいじんじゃ)と称することになった。天神社は合祀されずに、三社大神社の境内社になった。以来、大間野町の鎮守として崇められてきた。祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・豊宇気姫命(とようけひめのみこと)
社殿は、明治31年(1898)に拝殿を改築している。大正12年(1923)の関東大震災で本殿が全壊、拝殿も半壊。昭和元年(1926)氏子たちの尽力により新たな社殿が竣工。その後、昭和27年(1952)に拝殿が修理されて現在に至っている。
小学生が心待ちにしていた九日籠り
三社大神社には、昭和10年(1935)ごろまで、九日籠り(くんちごもり)という小学生が心待ちにしてた行事があった。『埼玉の神社』(北足立・児玉・南埼玉)埼玉県神社庁 神社調査団(平成10年3月31日発行)に次のように記されている。
かつて、大間野地区には、十月八日の晩に小学生が拝殿にこもった「九日籠り」という行事があった。十月八日の日中、氏子各家をまわって、お灯明銭を集め、菓子類を買って夜の楽しみにした。拝殿では、太鼓を叩いて腕を競った。翌朝、母親たちが赤飯を差し入れした。子どもたちはこの日を心待ちにしていたが、学校の指導で、昭和10年ごろに廃止された。
引用元: 『埼玉の神社』
九日籠りの「くんち」とは九日(ここのか)のこと。「クンチのおこもり」「おくんち」などとも呼ばれる。九日籠りは、大間野だけではなく、当時、越谷ではどこの村でも行なわれていた。九月九日の行事であったが、大間野村のように月遅れの十月九日に行なわれるところも多かった。
『越谷市民俗資料』越谷市史編さん室(昭和45年3月1日発行)に、「小学生が村をまわって、おこわやお燈明銭をもらい歩き、一晩中、神社でおこもりをした」「灯りをつけているので悪ふざけをして火事を出すと危険なので廃止された」「子どもたちは一晩中起きているので、翌朝、学校に行っても居眠りをしているために、再三、学校から注意を受けた」ことなどが記されている。
境内の風景
境内には、草加バイパス下り線の歩道から石段を下りて入る。左側に大正4年に建立された社号標が立っている。「指定村社 三社大神社」「埼玉縣南埼玉郡出羽村大字大間野」「大正四年五月氏子中」と刻まれている。扁額に「三社宮」と記された石鳥居。脇には江戸後期・嘉永6年(1853)の幟立。
手水石|鳥居横
鳥居の右横に、江戸中期・と安永4年(1775)の手水石(ちょうずいし)が置かれている。正面に「奉納御寳前」、右側面に「安永四乙未歳三月吉日」、左側面に「武蔵國 埼玉郡 越谷領 大間野村」とある。願主・奉納者15人の名前もみえる。
神域
鳥居から社殿までは石張りの参道になっている。参道は10メートルほど。拝殿前の広い境内は、がらんとしている。右手に集会所が見える。本殿裏手には、イチョウやスギなどの巨木が立ち並んでいる。神殿の両脇に境内社が三社みえる。
神殿
神殿は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したのを昭和元年(1925)に再建、拝殿は昭和27年(1952)に修理したものだが、瓦葺き・格子戸造りの荘厳な構え。九日籠り(くんちごもり)で、ここに泊まって一夜を過ごした子どもたちは、さぞ楽しかったことだろう。
記念碑・手水石・末社
神殿に向かって左手には、大正15年(1926)の永代燈明奉納記念碑、江戸中期・天明3年(1783)年の手水石、石鳥居があり、末社が二社祀られている。手前が八坂神社、奥が榛名神社。神殿の裏手は社叢になっている。
力石
榛名神社から本殿の裏手を回ったところに記念碑らしきものが見える。記念碑の台石は、周囲を寄せ集めた石で固定されているが、四隅の一角に卵形をした自然石が置かれている。「文化八年」「奉納」「四十八貫」と刻まれているので力石(ちからいし)のようだ。ちなみに四十八貫は約180キロ。
『越谷ふるさと散歩・下』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)三社大神社の項に、文化8年(1811)の奉納力石が拝殿の周囲に置かれていることが記されているので、この力石がその「奉納力石」と思われる。
本殿新築寄附芳名碑
力石などを使った台石で固定された石碑は寄付芳名碑。銘文に「三社大神社本殿新築寄附芳名碑」とある。碑面には関東大震災で全壊した本殿を再建するさいに寄付をした氏子の氏名がぎっしりと刻まれている。記念碑の前に「奉獻」「嘉永」などと刻まれた江戸後期・嘉永年間の台石が置かれているが、これは力石同様、記念碑とは無関係。
境内社|天神社
本殿に向かって右手に天神社がある。明治4年(1871)、この地に鎮座していた天神社の境内に、稲荷社・久伊豆社・厳島社を合祀して三社大神社としたとき、天神社は合祀されずに境内社となった。
天満天神座像
祭神は菅原道真。祠には天満天神座像が安置されている。天満天神(てんまんてんじん)とは、菅原道真の霊を神格化した呼称。
手水石|稲荷神社前
稲荷神社の手前横には、江戸中期・享保14年(1729)の手水石が置かれている。「越谷領大間野村」「享保十四己酉 九月吉日」「奉納御寳前」などの文字が確認できる。境内には三基の手水石が置かれているが、合祀される前の久伊豆社・弁天社・稲荷社などにあったものかもしれない。
疱瘡神の石
末社・榛名神社の裏手に小さな箱型の石塔がある。左側面に「天明八申十一月吉日」と刻まれているので、江戸後期・天明8年(1788)に造立された石塔のようだ。右側面には「大間野村向上手 氏子中」とある。「向上手」(むかうわて)とは、大間野村の向居組(むかいぐみ)と上手組(うわてぐみ)のこと。台石には、15人(女性3人・男性12人)の名前がみえる。
碑面には何も刻まれていないが…
碑面の正面には何も刻まれていない。『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)に「(この石塔は)地元では『疱瘡神の石』(ほうそうがみのいし)と言われてきた。正面には『疱瘡神』と刻まれていたのであろうか」とある。疱瘡神とは疱瘡(天然痘)の蔓延を抑える神様。越谷市には「疱瘡神」と刻まれた石塔が、このほかに八基現存している。
参拝情報
住所は埼玉県越谷市大間野四町4-1-1( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし おおまのちょう」。郵便番号は 343-0844 。東武伊勢崎線・蒲生駅(西口)から約2キロ。駐車場および車を駐めるスペースはない。トイレは集会場の裏手にあるが使われている形跡なし。使うにはちょっとためらいがある。