社殿西側
社殿西側の境内地は、神門(裏門)に続いている。神門に続く手前の石段は石柵を再利用したもの。二段目の角柱に「明治卄(二十)六年十一月建」の文字が読みとれる。
石灯籠
石段をのぼった左手に石灯籠がある。建立年代は不詳。竿の正面に「明哉明月徳遠不昧石燈中」と刻まれているが、意味はわからない。
側面には「真大山西方東方筆子中」とある。真大山(しんたいさん)は大聖寺のこと。この石灯籠は、大聖寺の寺子屋で学んでいた西方村と東方村の生徒(筆子=ふでこ)たちが寄進したもの。
石灯籠をよく見ると、火袋(ひぶくろ)と請台(うけだい)が新しい。
昭和54年(1979)に発行された『越谷ふるさと散歩(上)』(※11)に、この石灯籠について「『真大山西方東方筆子中』と刻まれた石が、くずれ落ちた笠石などとともに倒れている」とある。
昭和54年(1979)当時は、笠や竿などが崩れ落ちてバラバラになっていたものを、のちに補修したようだ。
※11 越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「西方の日枝神社」pp.80-81.
境内社
神門(裏門)手前に境内社が二社祀られている。向かって右側は「鹿島社」。左手は天神社。鹿島社の祭神は「建御雷神」(たけみかづちのかみ)、天神社の祭神は「菅原道真」(すがわらのみちざね)
天神社のご神体
天神社の祠の中にはご神体の石塔が祀られているが「主銘」などの文字は確認できない。
神門|裏門
神門(裏門)をくぐって、神門の前から境内を望む。裏門の木鳥居は、朱色に塗られた柱と貫(ぬき)だけの簡単な造りになっている。
鳥居の両脇には、平成6年(1994)3月14日に奉納された「伊勢神宮参拝記念」の朱塗りの御神燈が一対、建っている。
荒神文字塔
裏門入口の左脇に「荒神」(こうじん)と刻まれた明治21年(1888)造立の文字塔がある。この荒神塔は、もともとは東越谷の個人宅にあったものだが、平成になって、ここに移された。
奥州古道
裏門と駐車場の間を通っているのは奥州古道(おうしゅうこどう)。吉川道、堤土手道とも呼ばれている。越谷市内には、江戸時代以前から奥州(東北地方)との往来に使われたとされる道(奥州古道)が、何箇所か残っているが、この道もそのうちのひとつ。
越谷市郷土研究会の秦野秀明氏によると、「越谷市内を通る奥州古道(往古奥州道)は、元荒川(利根川本流)右岸の自然堤防(跡)上に存在した古道である」(※12)という。
※12 越谷市内を通る奥州古道については、秦野氏が2023年6月に発表した「『往古奥州道』は『大河の自然堤防(跡)上』の古道」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/230624_ohko_ohsyuudoh_h_h.pdf
かつては乗合馬車が往復した
神門を正面に見て、奥州古道を左に進むと吉川方面(上の写真の左側)、右に進むと大聖寺、しらこばと橋方面に出る(上の写真の右側)。
『越谷ふるさと散歩(上)』に次のように記されている。
「この道こそ古くは奥州街道にあたる道であり、明治大正期までは越ヶ谷吉川間の公道として、ラッパの音を響かせて乗合馬車が往復した古道である」(※13)
耳を澄ますと、はるかかなたから乗合馬車のラッパの音が聞こえてくるかのようだ。
※13 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)p.89.
参拝情報
山王日枝神社の住所は、埼玉県越谷市相模町6-481( 地図 )。郵便番号は 343-0823。場所は、元荒川に架かる不動橋(南詰)から相模町スポット広場前の道(旧吉川道)を250メートルほど進んだ右手。駐車場は裏門の前にある。トイレはない。
参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『日本石仏図典』国書刊行会(昭和61年8月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『歴史が分かる、腑に落ちる神社の見方』小学館(2007年7月15日 初版第6刷発行)