越谷市大成町の八坂神社裏手・弁天内池には、白蛇伝説とおいてけ堀伝説という二つの伝説が伝わっているが、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「弁天内池のおいてけ堀伝説は誤りで、地元で伝わる本来の伝説は白蛇伝説だけ」だと論考している。

弁天内池

弁天内池|越谷市大成町

まずは、弁天内池(べんてんうちいけ)について、簡単にふれておく。
 
江戸後期・天明6年(1786)の関東大洪水のときに、見田方(みたかた)八坂神社裏手の元荒川堤防が決壊し、自然堤防(堤土手道)をはさんで、大きな沼がふたつできた。ひとつは「外池」(そといけ)。もうひとつが「内池」(うちいけ)。今はどちらも面影は残っていない。
 
上の写真に見えるカーブしている道が堤土手道。

江戸時代の弁天内池

※上の図は加藤幸一氏提供

越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は、弁天内池について、次のように述べている。

案内役の加藤氏

決壊したのは、元荒川ではなく、元荒川より古くから流れていた元荒川の古川であったと推測できます。弁天内池はこの古川の決壊によってえぐり取られてできたのです。これを「押堀」(おっぽり)と呼んでいます。(※1)

※1 (出典)加藤幸一(2023)「見田方の八坂神社裏の知られざる白蛇伝説」(こしがや文化芸術祭)展示原稿

弁天内池に伝わる伝説の変遷

弁天内池|おいてけ堀

かつての内池跡に、空堀(からぼり)の真ん中に土が盛られ、小さな祠が建っている。場所は見田方八坂神社(越谷市大成町1-71-1)の裏手。ここが弁天様を祀る弁天内池。通称・おいてけ堀。
 
この弁天内池には「白蛇伝説」と「おいてけ堀伝説」というふたつの伝説が伝えられている。それでは、ふたつの伝説の変遷を時系列で見ていこう。

参考|外池の人柱伝説

外池にも「人柱伝説」(ひとばしらでんせつ)が残っている。関東大洪水で決壊した元荒川の堤防を修復するにあたり、再び破堤(はてい)しないようにと、巡礼娘を人柱にしたという。この巡礼娘を供養するために建てたと伝えられている石塔が今も残っている。

昭和14年|1939年

昭和14年(1939)当時、弁天内池には「白蛇伝説」が伝えられていた。
 
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、中村徳二郞(1939)「大相模郷土史」に記された弁天内池の白蛇伝説を、加藤幸一(2023)「見田方の八坂神社裏の知られざる白蛇伝説」の中で、次のように紹介している。

この池(弁天内池)の主はかなり大きな白蛇で、たまに通りかかる人を池の中に引き込んでは、池の底に身を隠していたのであった。そこで地元の人々は、ここに水神宮と弁天を祀ることにした。すると、いつしか白蛇は出現することはなくなった。

※2 加藤幸一(2023)「見田方の八坂神社裏の知られざる白蛇伝説」(こしがや文化芸術祭 展示原稿)

昭和14年(1939)当時、弁天内池に伝えられていたのは、「白蛇伝説」だけで、「おいてけ堀伝説」は、なかったことが分かる。

昭和35年|1960年

『越谷市の史跡と伝説』昭和35年(1960)4月15日発行

昭和35年(1960)になると、「白蛇伝説」のほかに、「おいてけ堀伝説」が出てくる。
 
昭和35年(1960)に発行された『越谷市の史蹟と伝説』(※3)には、「白蛇伝説」と「おいてけ堀伝説」のふたつが紹介されている(以下、引用、抜粋)

白蛇伝説

この内池に、白蛇(かなり大きかったと土地の人は言う)が住み、たまたま通行人を内池に引きこんでは水底に身をかくしていたのであった。以後、土地の人はこの内池を恐怖の池として眺めていたが、こうした災難を二度とくり返さないようここに水神宮と弁天を祀ったところ、白蛇はいつしか消えて、再びその姿を現わさず、災害もなくなったという。(※3)

オイテケ堀伝説

またひとつには、この内池はオイテケ堀と呼ばれている。夕刻から夜にかけて、この内池を通ると、池のあたりから、オイテケ、オイテケ、と不気味な声が聞こえてくるという。したがって、通行人はとるものもとりあえず逃走することがしばしばあったので、この内池をオイテケ堀と言い伝えている。古池や淵などには、このようないわくがよくあるものである。(※3)

※3 『越谷市の史蹟と伝説』越谷市教育委員会/越谷市文化財調査委員会(昭和35年4月15日発行)「大相模地区」147頁

オイテケ堀伝説はあとづけ

『越谷市の史蹟と伝説』では、「おいてけ堀伝説」が、どのように伝えられたのかは記されていない。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「江戸の本所のオイテケ堀伝説の影響を受けて」(※4)、本来の「白蛇伝説」とは別に、新たに「おいてけ堀伝説」が伝わった、としている。

※4 加藤幸一(2023)「見田方の八坂神社裏の知られざる白蛇伝説」(こしがや文化芸術祭 展示原稿)

昭和54年|1979年

『越谷ふるさと散歩(下)』(昭和55年4月30日発行)

昭和54年(1979)になると、従来の「白蛇伝説」と、あとづけの「おいてけ堀伝説」が、ひとつの話として伝えられている。
 
昭和54年(1979)に発行された『越谷ふるさと散歩(下)』(※5)には、次のように記されている(以下、引用、抜粋)

この沼(弁天内池)の主は大きな白蛇であり、ここを通ると「オイテケオイテケ」との白蛇の声が沼の底から聞こえるので、人びとは「オイテケ沼」と名付けて恐れ、だれも近寄らなかったという伝説が残されている。

※5 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「見田方の八坂神社」85頁

ふたつの伝説がひとつに

昭和54年(1979)になると、従来の「白蛇伝説」と、あとづけの「おいてけ堀伝説」が、ひとつの話になってしまっている。「白蛇伝説」の名前は消え、以降、弁天内池の伝説は、「おいてけ堀伝説」の名で広まっていく。

昭和61年|1986年

昭和61年(1986)になると、新説が定着した。
 
昭和61年(1986)3月に設置された八坂神社の案内板には、「人々はこの沼(内池)を『オイテケ堀』と名付けている。この沼の主は大きな白蛇で、人が通ると『オイテケオイテケ』と呼びかけ、沼に引き込むといって(大人たちは)子供たちを近づけなかったといわれている」と、書かれている。
 
弁天内池の伝説は、新説の「おいてけ堀伝説」が一般化し、従来の「白蛇」伝説は完全に忘れ去られてしまった。

まとめ

内池弁財天|越谷市大成町

弁天内池に伝わる本来の伝説は、越谷市郷土研究会の加藤氏が述べているように、「白蛇伝説」だけだったが、昭和30年代ごろに、江戸・本所のオイテケ堀伝説の影響を受け、「おいてけ堀伝説」が新しく加わり、昭和50年代には「白蛇伝説」と「おいてけ堀伝説」がひとつの話となって広まり、以降、「おいてけ堀伝説」の名で定着した。

案内役の加藤氏

地元で(弁天内池に)伝わる本来の伝説は大きな白い蛇が住んでいるとの「白蛇伝説」だけです。地元由来の「白蛇伝説」を文化遺産として後の世まで残しておきたいものです。(※6)

※6 加藤幸一(2023)「見田方の八坂神社裏の知られざる白蛇伝説」(こしがや文化芸術祭 展示原稿)