光明院

光明院

光明院に到着。光明院の正式名称は香取山光明院(かとりさんこうみょういん)。創建年代は不詳。江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』越ヶ谷領「大澤町」の項に、「宗派は新義真言宗。香取山と号し、本尊は十一面観音。薬師堂がある」(※6)と記されている。

※6『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大澤町」の項、148頁

本堂へ

本堂

本堂の前で住職が出迎えてくれた。住職の案内で本堂に入った。

内陣

内陣(ないじん)には、地蔵菩薩と不動明王をはじめ、さまざまな仏さまが祀られている。正面中央の金色に輝く小さな厨子(ずし)の中にいらっしゃるのが秘仏の薬師如来坐像。なんとも神々しいお姿をしている。ほんとうに後光がさしているように見える。

住職のお話

外陣(げじん)に用意されていた椅子に座って住職の話を聞いた。

現在の本堂は、

昭和58年(1983)に新築されたものですが、光明院の開山は 450年前といわれています。過去、11回の火災に見舞われ、古文書や寺宝などは残っておりません。唯一焼け残ったのが、薬師如来坐像です。

薬師如来座像

見学させていただいた薬師如来像の写真は非公開のため本記事でも公開を控えた。

ありがとうございました

境内

参拝を終え、住職にお礼を述べて、光明院をあとにした。住職が、山門前で、われわれ一行(いっこう)の姿が見えなくなるまで、見送ってくださった。

香取神社参道入口

大沢三丁目交差点から足立越谷線を渡って香取神社の参道入口前を通過。旧日光街道に向かう。

旧参道

市道

上の写真は旧日光街道側から光明院を望んだ風景。
 
かつて、光明院と香取神社は同じ敷地内にあった。足立越谷線を開通させるときに、光明院と香取神社が分離された。大沢三丁目交差点から旧日光街道に向かう市道は、かつての光明院に向かう参道だった。

旧利根川左岸堤防跡

旧日光街道

旧日光街道を右に曲がる。前方左手のビルは北越谷駅東口前のライオンズステーションタワー北越谷。よく見ると、旧日光街道のこのあたりは少し小高くなっている。

案内役・秦野氏

この場所は、かつての旧利根川の左岸側堤防でした。


当時、旧利根川(現在の元荒川)は北からこの場所を通って北東に流れていった。

カスリーン台風の水没を免れた

案内役の秦野氏が、「昭和22年(1947)9月のカスリーン台風のときに、小高くなっているこの地点は、旧大沢町で水没を免れた数少ない場所だった」と、話をしてくれた。

案内役・秦野氏

この場所は、旧利根川本流の左岸・右岸の自然堤防と日光道中(日光街道)が交差していた地点で、自然堤防がカスリーン台風の水没から守ってくれたのです。

この道は奥州古道と推定される
案内役・秦野氏

この道が、大房薬師堂と光明院薬師堂を結んでいた様子が迅速測図に記載され、奥州古道とも推定しています。

奥州古道については秦野氏が「『往古奥州道』と『押立堤』」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/239.pdf

移動|北越谷駅入口交差点

北越谷駅入口交差点

北越谷駅北口交差点を渡って、右側の側道に入った。左手は北越谷東口駅前通り。ここから再び逆川緑道をめざす。

茶屋裏落とし

茶屋裏落とし

この市道は、北越谷東口駅前通り(南側)に沿って通っている。暗渠(※7)の下は排水路が流れている。

※7 暗渠(あんきょ)とは、蓋をされて外からは流れが見えなくなってしまった川や水路のこと。土の中に埋められてしまって水路跡だけが残っている場合も暗渠と呼ばれている。

案内役・秦野氏

この暗渠の下の水路は茶屋裏落とし(ちゃやうらおとし)と呼ばれています。かつて北越谷駅入口交差点付近に二軒の茶屋があったことに由来しています。


茶屋裏落としは、会の谷落とし(あいのやおとし)とも呼ばれていたそうだ。また、北越谷駅入口交差点付近には、土橋も架かっていたと、案内役の秦野氏が教えてくれた。

掃きだめ天王

十字路

十字路にぶつかった。

案内役・秦野氏

この十字路の脇に「掃きだめ天王」(はきだめてんのう)と呼ばれる社(やしろ)がありました。また、南南東には「掃きだめ稲荷」と呼ばれるお稲荷様がありました。

茶畑

市道

道を進む。秦野氏が、この付近(大沢三丁目の一部)は地元では「茶畑」と呼ばれている、と教えてくれた。茶畑があったからではなく、お茶の木で生け垣を作っていた家があっことが地名の由来。

逆川緑道が見えてきた

逆川緑の道の手前

道を進むと前方に逆川緑道が見えてきた。