勝林寺

勝林寺|山門

勝林寺(しょうりんじ)に到着。住所は越谷市増林2687。戦国時代の天文7年(1538)開山と伝えられている曹洞宗の古刹。「蒼龍窟」(そうりゅうくつ)と記された堅額(けんがく)が掲げられた山門をくぐって境内へ

越谷観音

越谷観音

境内に入ると、左手にある巨大な越谷観音が出迎えてくれた。越谷観音は昭和51年(1976)に建てられたが、知名度は低く、越谷市民でも知っている人は少ない。

庚申塔と板碑

庚申塔と板碑

境内の右手、小高くなっている場所に、二基の石塔が並んでいる。向かって右手は、江戸末期・万延元年(1860)の文字庚申塔。左手は、戦国時代・文明3年(1471)の十三仏板碑。ほぼ完全な形で残っていて、越谷市の有形文化財・考古資料にも指定されている。
 
越谷観音の裏手にある墓地に移動。

勝林寺の墓地を見学するにあたっては、事前に見学の趣旨を伝えたうえで、許可を得た。また、個人の墓には立ち入らないなど、細心の注意を払って見学させていただいた。

越谷市最古の墓塔

宝篋印塔墓塔

江戸前期・元和2年(1616)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)墓塔(上の写真の黄色い▲印)

加藤氏

この墓塔は、越谷市最古と断定していいと思います。


「この墓塔は、50年前に明治大学教授の故・荻原龍夫氏が、『越谷市史』編さん準備のために、膨大な時間をかけて市内全域の石塔を調査し、その中で苦労して見つけたものです。この機会に、ぜひとも荻原龍夫教授の名前を知っていただきたい」と、案内役の加藤氏がつけ加えた。

烏八臼の墓塔

烏八臼の墓塔

墓地内に、「烏八臼」(うはっきゅう)と呼ばれる文字が刻まれている珍しい墓石が、二基ある。上の写真はそのうちの一基。主銘の最頂部に見える「八」「臼」「鳥」を縦に並べたような文字(黄色い○印)が烏八臼。

烏八臼

烏八臼

加藤氏によると、烏八臼は、「鳥」「八」「臼」の三つの字からなっている漢字で、ほぼ曹洞宗の墓標にかぎって見られるという。

烏八臼の文字例

烏八臼の文字

画像は加藤氏提供

加藤氏

烏八臼は、記号や合字ではなく、「ついばむ」という意味の漢字です。詳しい漢和辞典にも出ています。「鳥に死骸をついばませた鳥葬の風習が語源の根底にある」と私は考えています。

烏八臼に関する加藤氏の論考

越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏は、烏八臼に関する論考「烏八臼の石仏―『鳥八臼』というべきか?―」を著わしている。以下 URL を示す。
http://koshigayahistory.org/456.pdf

「祖師西来意」文字塔

「祖師西来意」文字塔

続いて、「祖師西来意」(そしせいらいい)の銘が刻まれている板碑型の文字塔を見学。江戸前期・寛文元年(1661)に建てられたものなので、文字の風化が進んで読み取りにくくなっているが、うっすらと「祖師西来意」の銘が確認できる(上の写真の黄色い○印)
 
「祖師西来意」とは、禅宗で修行者が悟りを開くために課題として与えられる公案(こうあん)のひとつで、禅宗の開祖・達磨大師(だるまだいし)が西のインドから中国にやって来たのはどういう意味か、という問題。
 
このほか、一葉観音(いちようかんのん)像付き開基塔や六十六部廻国塔を見学して、墓地を出た。

石塔群

石塔群

墓地と境内の境界にある塀際に、庚申塔などの石塔が 6基、並べられている。案内役の加藤氏が、二基の石塔について解説してくれた。

道しるべを兼ねた庚申塔

道しるべを兼ねた庚申塔

道しるべを兼ねた文字庚申塔。江戸後期・寛政10年(1798)造立。正面に「青面金剛」と刻まれている。左側面に「わたしバ道」、右側面に「ふどう道」の文字が確認できる。ふどう道とは大相模不動尊(大聖寺)に向かう道のこと。

加藤氏

「わたしバ」(渡し場)とは、さきほど見学した、古利根川の「ばば渡し」のことをさしていると思われます。

法華経及び般若理趣経供養塔

法華経及び般若理趣経供養塔

法華経及び般若理趣経供養塔。江戸中期・享保14年(1729)造立。正面の主銘は「大乗妙典一千部読誦供養塔」。大乗妙典(だいじょうみょうてん)とは、法華経のこと。この石塔は、大乗妙典を一千部、読誦(どくじゅ)した記念に建てられたもの。

加藤氏

この供養塔は、もともとは、さきほど訪れた「とうかん山」の頂上に立っていました。

般若理趣経供養塔|裏面

般若理趣経供養塔|裏面

裏面は、般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)供養塔になっている。主銘は「大乗般若理趣分一千巻読誦供養塔」。この銘は、表面の11年後、元文5年(1740)に刻まれた。
 
般若理趣分(はんにゃりしゅぶん)とは、般若経典のひとつで、理趣経(りしゅきょう)ともいう。理趣経を一千巻、読誦した記念に、ここに刻んだものと思われる。
 
勝林寺の見学はこれで終了。参道から平方東京線へ向かう。

馬頭観音文字塔|平方東京線交差点

馬頭観音文字塔

参道と平方東京線がぶつかる十字路(信号)脇(個人宅の敷地内)に、小さな駒型の石塔がある。これは江戸後期・文化14年(1817)造立の馬頭観音文字塔。正面に「馬頭観世音」の文字が確認できる。
 
信号を左折。平方東京線を進む。

帰路|旧道

平方東京線|旧道

20メートルほど歩くと、道が二股に分かれている。左側の細い道は昔からある道。平方東京線を直進しないで、左側の旧道を歩く。

帰着|ふれあい橋交差点

ふれあい橋交差点

100メートルほど歩くと、旧道は平方東京線と合流する。その先の十字路は、平方東京線と市役所前中央通りが交差する「ふれあい橋」交差点。左に行くと古利根川に架かるふれあい橋から野田方面へ。右手は、越谷市民球場から越谷市街に出る。

解散

秦野氏あいさつ|ふれあい橋交差点

時間は午後5時20分。北越谷駅東口を出発して約4時間。巡検は、いったん、ここ(ふれあい橋交差点)で解散。案内役をつとめた加藤氏と、越谷市郷土研究会・副会長兼地誌研究倶楽部の会長である秦野氏が、あいさつ。

秦野氏

私どもの地誌研究倶楽部も今年で10年目を迎えることができました。これからもみなさまとともに越谷の知られざる地誌を掘り下げていきたいと思います。


一同拍手のあと解散。

健脚コース|解散後

古利根川|右岸側土手道

このあと、「健脚コース」と称し、希望者だけで、ふれあい橋から南側、増林の北東エリアの史跡を 1時間ほどかけて巡った。健脚コース参加者は 7人。その様子は、3記事目でお伝えする。

関連記事

本記事では、全体が冗長になるのを避けるために、石仏や史跡などの説明は、できるかぎり必要最小限にとどめた。中でも「勝林寺」と「とうかん山」についての解説はかなり割愛した。勝林寺と、とうかん山については、本ブログの別記事で詳しく紹介しているので、参照願いたい。

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげます。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、石仏や石塔の金石文を確認するさいに、関係書籍や調査報告書とも照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。中でも今回の巡検で案内役をつとめた越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏の調査報告「増林地区の石仏」によるところが大きい。

参考文献

加藤幸一「増林地区の石仏」平成16・17年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)