越谷市小曽川公民館横、越谷岩槻線沿いにある慈眼寺(じげんじ)跡共同墓地。小道をはさんだ隣には小曽川(おそがわ)の久伊豆神社がある。公民館の脇に並べられている庚申塔や墓地入口前にある百堂供養塔などの石仏や石塔を調査した。

慈眼寺|共同墓地

慈眼寺跡墓地|小曽川公民館横

この共同墓地を地元では「じげんじ」と呼んでいる(※1)。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』小曽川村の項に「慈眼寺」の名が見える(※2)

※1 「荻島地区の石仏」加藤幸一(平成14年度調査/平成29年3月改訂)「久伊豆神社そば慈眼寺跡墓地」39頁(越谷市立図書館所蔵)

※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「小曽川村」146頁に「慈眼寺 禅宗曹洞派、野島村浄山寺末、本尊は阿弥陀仏を安ず」とある。

『埼玉の神社』(※3)には「集会所(小曽川公民館)は、野島村の浄山寺住職の隠居寺であった慈眼寺の跡」とあることから、この共同墓地及び集会所は慈眼寺の跡地だと思われる。

※3 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)1202頁

墓地の入口|二基の石塔

二基の石塔

寺の跡地といっても現在は墓地と集会所(小曽川公民館)になっている。墓地の規模は小さい。墓地の入口には、地蔵菩薩が彫られた石塔と、二つに割れた文字塔が置かれている。まずはこの二基の石塔を見てみよう。

地蔵菩薩像付き百堂供養塔

地蔵菩薩像付き百堂供養塔

江戸前期・寛文2年(1661)の百堂供養塔(※4)
 
石塔型式は舟型光背型。正面中央に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。石塔の最頂部には阿弥陀三尊を表わす三文字の梵字が刻まれている。中央はキリーク(阿弥陀如来)、左はサク(勢至菩薩)、右はサ(聖観音菩薩)
 
脇銘は「奉納百堂供養二世安楽成就所」「越ヶ谷内小曽河村」「寛文二壬寅七月十四日同行廿七人」とある。

※4 百堂(ひゃくどう)供養塔とは、村や近隣にある百箇所のお堂を巡拝した記念に建てられた石塔。百堂供養は念仏を唱えながら巡拝する。脇銘に「同行廿(にじゅう)七人」とあるので、百堂めぐりを行なった小曽川村の念仏講員27人で寄進した供養塔と思われる。

「歓喜殿」文字塔

「歓喜殿」文字塔

百堂供養塔の隣に、二つに割れている年代不詳の文字塔がある。石塔型式は隅丸型。石塔には「歓喜殿」と刻まれている。右側面には「素云包孝謹書」とある。「歓喜殿」の文字は、素云包孝という僧侶が書いたようだが、歓喜殿の意味は、分からなかった。
 
続いて墓地内へ

墓地内の石塔

墓塔

墓地内にも目に止まった石塔が何基かあった。撮影・調査を行なうにあたっては、墓石の家名など個人情報が特定されないように、細心の注意を払った。

念仏塔

念仏塔

江戸後期・文化7年(1810)の念仏塔。石塔型式は山状角型。正面の主銘は「念佛七億万遍供養萬霊等」。脇銘は「文化七庚午年」「二月吉祥日」「願主泉光」(※5)

※5 念仏塔は墓石の最後列に並んでいるので脇銘は全文読みとれなかった。脇銘については、「荻島地区の石仏」加藤幸一(平成14年度調査/平成29年3月改訂)越谷市立図書館蔵「慈眼寺墓地・念仏塔」の項・39頁に従った。

子育地蔵

子育地蔵

子育地蔵。駒型の石塔に子育て地蔵が浮き彫りされている。最頂部に「子育地蔵」と刻まれている。側面には「昭和十□年二月」の銘と、寄進者の名前が見える。

地蔵菩薩坐像

地蔵菩薩坐像

丸彫りされた地蔵菩薩坐像。江戸中期・享保18年(1733)造立。台石の正面に「当村念仏講中」とある。お顔は朽ち果てつつも夭折した童女や童子たちを見守り続けてくださっている。合掌。

如意輪観音墓塔

如意輪観音墓塔

如意輪観音墓塔。じつにあやかなお顔をしている。年代は不詳だが、江戸時代の女性の墓石と思われる。
 
墓地を出て、公民館の脇に移る。

小曽川公民館脇の石仏

小曽川公民館脇の石仏

公民館の脇に石仏が 5基、並んでいる。4基が庚申塔、1基は如意輪観音像塔。

青面金剛像庚申塔|正徳4年

青面金剛像庚申塔|正徳4年

向かって左端は江戸中期・正徳4年(1714)の庚申塔。正面に「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「三猿」「二鶏」が浮き彫りされている。青面金剛は六手合掌型。左側面に「奉供養青面金剛二世安楽處」、右側面には「正徳四甲午天十一月」「小曽川村」「施主十一人」とある。
 
石塔型式は角柱型円頭型にも見えるが、円頭部分の破損状態からみると、もしかしたら石塔の上には笠が載っていたのかもしれない。
 
互いにくちばしを合わせてキスをしているような二鶏の姿は珍しい。頭を青面金剛に踏みつけられている邪鬼が正面を向いているのもおもしろい。

青面金剛像庚申塔|寛政11年

青面金剛像庚申塔|寛政11年

左から2番目は、江戸後期・寛政11年(1799)の青面金剛像庚申塔。石塔型式は兜巾(ときん)型。正面に「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」が陽刻されている。青面金剛は六手剣人型。
 
台石の正面にも三猿が陽刻されている。台石の側面には「講中」「小曽川邑」「寛政十一年」「己未霜月日」の文字が確認できる。

側面

青面金剛像庚申塔|寛政11年

左側面と右側面には「青面金剛」(しょうめんこんごう)と刻まれている。

如意輪観音菩薩像塔|文政9年

如意輪観音菩薩像塔|文政9年

中央は、正面中央に如意輪観音が陽刻されている光背型(舟型)の石塔。江戸後期・文政9年(1826)造立。脇銘は「文政九戌十月吉日」。台石には「小曽川村 講中」のほか、願主に女性三人の名前が刻まれている。
 
如意輪観音は女性の墓塔に主尊として陽刻されていることが多いが、この石塔には戒名などは見あたらないので、墓石ではない。

月待塔か?

如意輪観音

願主三人が女性で、「講中」の銘があることから、小曽川村の月待講の参加者たちが「月待塔」として造立したものかもれしない。如意輪観音は、十九夜や二十一夜などの守り本尊(主尊)とされ、月待講は、女性だけの講がほとんどだった。

青面金剛像庚申塔|寛政11年

青面金剛像庚申塔|寛政11年

右から2番目は、江戸後期・寛政11年(1799)の庚申塔。正面に「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」が陽刻されている。台石の正面には「三猿」が刻まれているほか、「寛政十一年」「己未霜月日」「小曽川邑」「講中」とある。
 
青面金剛は六手剣人型。右中手に剣、左中手でショケラと呼ばれる女人の髪をつかんで、ぶらさげている。

側面

青面金剛像庚申塔|寛政11年

左側面と右側面の両方に「青面金剛」と刻まれている。

青面金剛像庚申塔|天保2年

青面金剛像庚申塔|天保2年

右端は、江戸後期・天保2年(1831)の庚申塔。石塔型式は兜巾型。正面に「日月」「青面金剛像」「邪鬼」が浮き彫りされている。青面金剛は六手剣人型。右中手に剣、左中手でショケラの髪をつかんでいる。
 
台石の上に載っているが、石の状態からみて、石塔(庚申塔)と台石は、あきらかに別のものと思われる。

側面

「庚申塔」の銘

右側面には「庚申塔」と刻まれている。左側面には「天保二辛卯年」「十一月吉日」の文字が確認できる。
 
 
石仏調査はこれで終了。

小曽川久伊豆神社

小曽川久伊豆神社

今回取材した慈眼寺跡墓地の東隣には、小道をはさんで、小曽川の鎮守・久伊豆神社がある。境内には、疱神(ほうじん)供養塔のほか、御岳山供養塔や金毘羅権現文字塔などの石塔が並べられている。小曽川久伊豆神社の石仏については下記の記事で紹介している

地図

慈眼寺跡共同墓地(小曽川公民館)の住所は、埼玉県越谷市小曽川439( 地図 )。郵便番号は 343-0802。場所は、朝日バス「越谷西高校入口」バス停からすぐ。越谷岩槻線(埼玉県道48号)沿い。駐車場はないが、東隣の久伊豆神社鳥居横に車が駐められるスペースがある。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、石仏や石塔の金石文を確認するさいに、関係書籍や調査報告書とも照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。

参考文献

加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)