越谷市新川町(しんかわちょう)。市の西南部に位置し、かつては越巻村(こしまきむら)と呼ばれた。綾瀬川左岸に沿って中新田と丸の内とに分かれ(現在の新川町一丁目と二丁目)、どちらの集落にも鎮守・稲荷社があった。双方の稲荷社では毎年「おびしゃ」と呼ばれる祭礼が行なわれ、その記録を記した産社祭礼帳(おびしゃさいれいちょう)が、360年以上にわたって書き継がれている。新川町には稲荷社二社のほか薬師堂と満蔵院跡地があり、各社寺の境内には越巻村の歴史を伝える石仏や石碑も多く見られる。

越巻村の歴史

新川(越谷市新川町)

『新編武蔵風土記稿』(雄山閣)越巻村の項に「越巻村は七左衛門村から分村(ぶんそん)す、元禄国図(げんろくくにず)に始て七左衛門村枝郷(えだごう)と載せ、越巻の名出たれば」「家数三十六」「小名(こな)中新田 丸ノ内 雨足(うたり)」「綾瀬川 村の西を流る」とある。
 
これによると、越巻村は、七左衛門村(現在の七左町)が成立したあと、綾瀬川沿岸(東側)の沼沢地帯を開発し、七左衛門村(本村)から分かれてできた村(枝郷)で、中新田・丸の内・雨足(うたり)という三つの集落によって構成され、当時、越巻村の家の数は36軒、村の西側には綾瀬川が流れている、ということが分かる。
 
雨足は中新田の飛地(とびち=地続きではない場所)にあったので、雨足と中新田を合わせて中新田と呼ばれるようになった。中新田(雨足を含む)は今の新川町二丁目、丸の内は今の新川町一丁目にあたる。

産社祭礼帳

中新田稲荷神社

中新田と丸の内には、それぞれ鎮守の稲荷神社があり、双方で、「おびしゃ」と呼ばれる例祭が行なわれた。オビシャでは毎年、当番(年番)が、備社帳(びしゃちょう)という収支決算の帳簿を付けて、次の当番に引き継ぐ習わしになっていた。

おびしゃ(産社)とは、

村の鎮守様のこと。産土祭(うぶすなまつり)ともいい、農耕を司るお稲荷様に、五穀豊穣を祈る祭りである。「産社」は「おびしゃ」または「おぶしゃ」「うぶしゃ」などと呼ばれ、「お備社」(おびしゃ)という漢字が使われることもあるが、ここでは「産社」(おびしゃ)に統一する。

越巻中新田の産社祭礼帳

産社祭礼帳の案内板

丸の内では、江戸前期・天和三年(1683)以降の「祭礼入用帳」(備社帳)が保存されていて、オビシャの記録も記載されている。中新田には、江戸前期・承応三年(1654)から記録が書き継がれている「産社祭礼帳(※)」が保存されている。中新田の備社帳は「越巻中新田の産社祭礼帳」(こしまきなかしんでんのおびしゃさいれいちょう)として、越谷市の有形文化財(歴史資料)に指定されている。(※)中新田に保存されている「産社祭礼帳」の表紙には「産社」(ウブシャ)とふりがなが振ってある。

産社祭礼帳の内容

越巻中新田の産社祭礼帳は、江戸前期・承応三年(1654)からの記録が受け継がれ、途中、記録が抜けている時代もあるが、現在でも昔どおりに書き継がれている。はじめのころは、当番者の名前や収支の記録しかないが、江戸中期・享保(きょうほう)年間あたりになると、その年に起こった災害や村の出来事、米の相場、年貢、世相などについての記載もみられるようになる。
 
たとえば、江戸中期・元文四年の項には「正月九日暁越ヶ谷町大火事」、宝暦七年には「五月大水、田畑共実のり三分一通、御年貢三分一程上納」、「今年稲荷大明神御宮大破」(享和二年)「奥州辺大飢饉にて人多死、さむさゆへ五穀実らず」(天明二年)「将軍様御鹿がり被遊候」(寛政九年)などとある。
 
そのほかにも「明治19年(1886)二月、前年五月に大雨のため水害が起こり、年のはじめにはコレラが流行して、野菜や果物の食用が禁止されるという異常事態が起きたが、二月のオビシャ執行のころには明るい見通しとなった」(『越谷の歴史物語・第二集』越谷市史編さん室)など、村の出来事が克明に記されている。
 
越谷市教育委員会生涯学習課『古民家だより』(平成31年3月5日)では、「寛永6年(1853)6月、異国船来航で(ペリー来航のこと)、海岸防備の諸大名さまが多数ご通行のお触れが出された。」「慶応4年(1868)2月より天下騒動となり、徳川本家は駿府に移された。夏から秋まで官軍が奥州征伐(戊辰戦争)のために街道を大通行し、天子様は江戸に移られて東京府と改められた。」など、世相についての記録が紹介されている。
 
これらの記録は、越巻や越谷の年代記ともいえ、当時の世相を知るうえでも貴重な史料になっている。当時の農民の識字率や意識の高さにも驚かされる。「越巻中新田の産社祭礼帳」は越谷が誇るべき文化財といえる。

新川町(旧・越巻村)の社寺と石仏

石仏|満蔵院墓地

新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「稲荷社 二宇 一鎮守にて慶長十七年、一は元和元年勧請すといふ、共に満蔵院持」「満蔵院 新義真言宗 七左衛門村観照院末、永光山満福寺と号す、当院は神明下村の民が祖先、会田七左衛門政重の開基なり、本村は正観音を安置す、」「薬師堂 正徳三年の建立にて、満蔵院の持なり」とある。
 
越巻村には、慶長17年(1621)と元和元年(1615)に創建された稲荷神社が二社と、この地を開拓した会田七左衛門政重が開いた満蔵院という真言宗の寺のほかに、正徳三年(1713)に建立された薬師堂があった。稲荷社二社と薬師堂は満蔵院が管理した、ということが分かる。
 
満蔵院は、明治8年(1875)に廃寺となり、現在は墓地だけになっているが、二社の稲荷社(中新田稲荷神社と丸の内稲荷神社)と薬師堂は現存している。境内には越巻の歴史がうかがえる貴重な石塔や石碑が残されている。また新川町の中央を流れる新川(古綾瀬川)沿いの路傍にも馬頭観音供養塔などの石仏が点在している。

中新田稲荷神社

中新田稲荷神社

越巻村中新田の鎮守・中新田稲荷神社(越谷市新川町2-66)。場所は老人福祉センターけやき荘の駐車場裏手。創建は江戸前期といわれ、妙観照(みょうかんしょう)の名で親しまれてきた。かつて神社の周囲一帯は水田地帯だったが、県民健康福祉村とけやき荘ができ、かつての景観は一変した。境内に残る松の巨木(妙観照の一本松)と、根本に並んでいる青面金剛文字庚申塔、「菅原荘」と刻まれた天神塔が当時の面影を伝えている。

丸の内稲荷神社

丸の内稲荷神社

越谷市新川町一丁目(旧・越巻村丸の内)の鎮守・丸の内稲荷神社。江戸初期の創建と伝えられる。お備社(びしゃ)と呼ばれる祭礼が天和3年(1683)から1月25日に行なわれているが、お備社の当番が収支などを記帳した天和3年からの帳簿(祭典入用帳)が今でも保存されている。参道には、欠損している石仏と江戸中期・元禄13年(1700)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)庚申塔、境内には力石が並べられている。

越巻薬師堂

越巻薬師堂

江戸中期・正徳三年(1714)の建立を伝える越巻薬師堂(越谷市新川町二丁目)。墓地と隣り合わせた境内地には、明治19年(1886)の廻国供養塔、正徳4年(1814)の地蔵菩薩像、寛文4年(1664)と延享5年(1748)の阿弥陀如来像、お堂の前方には、俳句の師である薫休居士(くんきゅうこじ)の徳をたたえて、元治元年(1884)に門下生が建てた句碑がある。句碑には薫休居士の遺稿(砧うつ 里の遠さや 花曇)が刻まれている。

満蔵院墓地

満蔵院墓地

越谷市新川町一丁目にある満蔵院墓地。この地を開発した会田七左衛門政重が開いた永光山満福寺と称された真言宗の寺院跡地で、明治6年(1873)に越巻学校が開校された場所でもある。敷地内には、越巻学校開設記念碑のほか、年代不詳の道しるべ付き題目塔、明治13年(1880)の一石六地蔵塔、嘉永3年(1850)の自然石の普門品供養塔、「新四国八十八箇所第二十番」と刻まれた文化13年(1816)の石塔、年代不詳の三体の仏像などがある。

新川沿い路傍の石仏

新川沿い路傍の馬頭観世音

越谷市の西端に位置する新川町。綾瀬川の左岸に位置し、綾瀬川を挟んで川口市と接している。以前は越巻村と呼ばれた。町の中央を蒲生岩槻線(埼玉県道324号)に沿って新川(古綾瀬川)が流れている。新川沿いの路傍には、古くから災難よけの神様として、「どうりゅう様」名で親しまれている大雄山碑石や雨降山碑石、かつては馬捨て場があったと思われる畑の一角には馬頭観音供養塔が建てられている。