鐘楼堂裏手の石仏群
東門から参道を20メートルほど進むと左手に鐘楼堂があるが、鐘楼堂の裏手、多数の岩石で覆われた傾斜面に、喜多向不動尊(きたむきふどうそん)をはじめ多くの石塔や石碑が置かれている。
喜多向不動尊と二童子
周囲をにらむようにして正面に立っている不動明王。左(向かって右)に矜羯羅童子(こんがらどうじぞう)、右(向かって左)には制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子(にどうじ)が脇侍(きょうじ)として配されている。不動明王と二童子(矜羯羅童子・制多伽童子)を合わせて不動三尊(ふどうさんぞん)と呼ぶ。
喜多向不動尊|不動明王像
喜多向不動尊(※7)と呼ばれる浮き彫り型の不動明王像。造立は江戸中期・安永3年(1774)。火焔型(かえんけい)の光背。右手に剣、左手に羂索(けんさく=縄)を持っている。羂索の両端には分銅(ぶんどう)と鐶(かん)が付いている。分銅で悪魔を打ち払い、鐶で衆生(しゅじょう)を救済するといわれている。
※7 北を向いているので喜多向不動尊(北向き不動尊)と呼ばれる。実際に北を向いている。
忿怒相
顔は、目をつり上げ、怒りを表わす憤怒(ふんぬ)の表情。右の牙が上を向き、下の牙が下を向いている。これは天地間の一切の衆生を救おうとしていることを表わしているといわれている。
矜羯羅童子(こんがらどうじ)
合掌しているのは矜羯羅童子(こんがらどうじ)。不動明王に仕える脇侍(わきじ)で「慈悲」を象徴している。
制多迦童子(せいたかどうじ)
制多迦童子(せいたかどうじ)は、左手であごを押さえ、左肘と右手で金剛棒を地面に押し立てている。不動明王の分身として衆生を救済する役割を担っている。
制多迦童子がもう一尊
宝篋印塔の横に、もう一尊、制多迦童子像がある。こちらも左手であごを押さえ、左肘と右手で金剛棒を地面に押し立てている。
不動明王尊文字塔
自然石に「不動明王尊」と刻まれた文字塔。年代は不詳。
敷石供養塔|東門通垢離取場
敷石供養塔。東門通りにあった垢離取場(※8)に敷石を敷いたさいに建てられた自然石の供養塔。造立年代は不詳。正面に「東門通 垢離取場 敷石供養塔」と刻まれている。
※8 垢離取場(こりとりば)…垢離(こり)とは、身についた罪や穢(けが)れのこと。神仏へ祈願する前に(垢離をとるために)冷水を浴びて身を清める場所を垢離取場と呼んだ。水で身を清めることを水垢離(みずごり)という。
大聖寺にあった水垢離の風習
かつて、喜多向不動(北向き不動)の前で水垢離をした風習があったという。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は『大相模地区の石仏』平成16・17年度調査/令和元年9月改訂(pp50-51)で、喜多向不動と水垢離について次のように解説している。(以下、引用)
現在の鐘楼堂の地に、江戸時代は愛宕山と呼んだ小山があった。その小山の北側斜面に不動三尊像が祀られていた。これが「北向き不動」である。まず(大聖寺の)本堂を拝み、それからうしろを向いて北向き不動を拝む信仰や、すぐそばの弁天池(今も湧き水によって涸れずにある。上の写真は鐘楼堂前にある弁天池)から竹の樋(とい)で呼び水をして、北向き不動の前で水垢離していたのが戦後まで見られたという。江戸時代、この水垢離をした場所には「含満井」(がんまんせい)と呼ばれる水垢離用の水が湧き出る井戸があったのである。
引用元: 『大相模地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)
卍亀碑
卍亀碑(まんじかめひ)または亀碑と呼ばれる石塔。造立年代は不詳。自然石の中央上部に「卍」、その下に象形文字のようなものが大きく刻まれている。『大相模地区の石仏』(※9)で、この卍の下の文字は「蓑亀」(みのがめ)を表わす象形文字という説が紹介されている。蓑亀は、甲羅(こうら)に緑藻が生えて蓑(みの)を着ているように見えるイシガメのことで、古来、長寿の印として尊ばれた。
向かって右側の脇銘は「鶴者千亀者万歳」。鶴は千(せん)亀は万歳(まんねん)と読む。向かって左側の脇銘は崩し字で刻まれていて読みとれない。『大相模地区の石仏』(※9)には「齢ひ(よわい)へて かき(ぎ)りもあらぬ 卍字(まんじ)出しやむ」とある。
※9 『大相模地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)「大聖寺卍亀碑」(p51)越谷市立図書館蔵
百堂巡礼及び石燈籠供養塔
百堂巡礼及び石燈籠供養塔。石塔型式は角柱型。江戸前期・貞享2年(1685)造立。正面に「奉百堂供養石燈籠 一基」、左側面に「武州大相模西方内願主□□」、右側面に「貞享二乙丑九月吉日 百堂□ 女人□」と刻まれている。「□」は劣化により判読不能。
西国33箇所・坂東33箇所所・秩父34箇所、計100箇所(百堂)を巡礼した記念に石灯籠一基を寄進したことを示す供養塔。当時、体の弱い人やお年寄りたちが、こうした百番供養塔を拝むことで、百番巡礼をしたと同じ功徳を得られるとされた。
江戸初期に越谷周辺で限定的にみられた「百堂巡礼塔」
「百堂巡礼塔」とは、神社仏閣の百のお堂巡りが完了したのを記念して造立した石塔である。観音堂・薬師堂・大師堂・阿弥陀堂など…。江戸時代初期、主に寛文年間前後に、埼玉県東部から千葉県、茨城県にかけて見られた時と場所が限定的な石塔である。
宝篋印塔
江戸中期・安永4年(1775)在銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。宝篋印塔とは『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)を納める経典供養塔のこと。下から基壇・基礎・塔身・笠と積み上げ、いちばん上に相輪が建てられている。
塔身|金剛五仏の種子
塔身に金剛五仏の種子(梵字)が刻まれている。上の写真、左から北(正面)…「アク」不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)。南…「タラーク」宝生如来(ほうしょうにょらい)。東…「ウン」阿閦如来(あしゅくにょらい)。西…「キリーク」阿弥陀如来(あみだにょらい)
参拝情報
住所は埼玉県越谷市相模町6-442( 地図 )。郵便番号は 343-0823 。アクセスは、JR武蔵野線・南越谷駅北口(東武伊勢崎線・新越谷駅北口)から朝日バス「大相模不動尊」下車。東武伊勢崎線・越谷駅東口からだと朝日バス「不動前」下車。駐車場は山門の裏手と横にある。毎月28日はお不動様の縁日なので駐車場はほぼ満車になる。
謝辞
本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。また、貴重な資料(大聖寺の明治の焼失以前の境内の様子を示した図)も提供していただけた。加藤氏には心からお礼申しあげる。
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2017年(平成29年)9月5日、越谷市の大相模不動尊大聖寺で、12年に一度、酉年に催される酉年御開帳に参拝し、御開帳特別護摩祈願も行なってもらった様子を写真と動画とともに紹介する。特別公開の秘仏や寺宝を見ることもできた。