裏参道にある百庚申以外の庚申塔

板碑型三猿庚申塔

板碑型三猿庚申塔

板碑型の石塔に三猿が陽刻された庚申塔。江戸前期・寛文7年(1667)造立。正面の最頂部に青面金剛を表わす梵字「ウーン」。主銘は「庚申待講中」「奉供養」「為二世安楽」。脇銘は「寛文七丁未年」「十月吉祥日」。
 
中央部に浮き彫りされた三猿、その下に「八左衛門」ほか九名の名前が見える。下部には開花した蓮(開敷蓮華=かいふれんげ)と蓮のつぼみ(未開敷蓮華=みかいふれんげ)が刻まれている。

三猿

三猿

この石塔は江戸初期に見られる板碑型の庚申塔で三匹の猿(言わ猿・見猿・聞か猿)が浮き彫りされている。青面金剛像や日月は見られない。江戸中期以降になると青面金剛像や日月が庚申塔に刻まれるようになってくる。この庚申塔は青面金剛像が主流となる前の貴重な史料ともいえる。

青面金剛像庚申塔|青木宗義作

青面金剛像庚申塔|天保10年

青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸後期・天保10年(1839)造立。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏が浮き彫りされている。左側面に「天保十己亥四月吉日」、右側面に「天下泰平国土安穏」とある。

青木宗義作

青木宗義の銘

この庚申塔は、江戸後期、名工とうたわれた石工・青木宗義(あおきそうぎ)作。左側面に「青木宗義」の文字が確認できる(上の画像参照)。台石にも「関八州 石工司 子孫 草加宿神流斎 青木宗義」の銘がある。青木宗義は草加宿(現・草加市)の石工(いしく)で、数多くの名品を残している。子孫は現在も草加市で石材店を営んでいる。

青面金剛像

憤怒相

最頂部。瑞雲に乗った太陽と月。憤怒相の青面金剛。炎のように逆立つ頭髪。頭頂部にはとぐろを巻いた蛇がいる。目は三つ目。恐ろしい形相から邪気や悪病を払うご利益が期待された。

持物

青面金剛像

青面金剛の手は六本。左上手は宝輪、左手はショケラ(女人=にょにん)、左下手は弓、右上手は三叉鉾(さんさぼこ)、右手は剣、右下手は矢を持っている。胸にはどくろの首飾り(瓔珞=ようらく)が見える。両足で邪鬼を踏みつけている。

邪鬼と三猿

邪鬼と三猿

青面金剛の足元には踏みつけられて苦しそうな表情をしている邪鬼。邪鬼の手足の指は三本(※1)しかない。

※1 邪鬼の指は三本になっているものが多いが五本指のものもある。五本指は法隆寺の邪鬼が有名。

邪鬼の下には三猿(三匹の猿)が陽刻されている。向かって左は桃を持っている言わざる、中央は聞かざる、右は御幣(ごへい)を手にしている見ざる。よくみると中央の猿にはへそがあり、陰部の形からメス猿と分かる。
 
この庚申塔の三猿について、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏は『大相模地区の石仏』(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)大聖寺(pp55-56)の中で、女性を対象にした山王信仰との関係を指摘している。以下、引用(抜粋)。

青面金剛の[……]下には三猿がいる。山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の山王権現の使いの猿が、庚申信仰の『申』(さる)と結びついたものである。
 
向かって右端は、神社の御幣を担ぐ見ざる。御幣は神の依代である。中央の言わざるは臍(へそ)が見られ、その下の陰部も表わされていて雌猿と分かる。当時は陰部に朱を塗って下(しも)の病を治そうとする庶民信仰が見られたのであろう。左端は、女性の臀部や陰部を連想させる桃を持つ聞かざる。猿は性欲の強い動物とされている。桃持ち猿は庶民の間では子授け、安産、下の病の祈願の対象となっていた。
 
ほとんどの庚申塔の三猿は見ざる、聞かざる、言わざるをただ刻んでいるだけであるが、この庚申塔に描かれた三猿は、下の病などに悩む女性を対象にした山王信仰(さんのうしんこう)の影響が如実に表わされていて珍しい。(大聖寺にほど近い)西方村の鎮守・山王日枝神社からの影響を強く受けたものかもしれない。

二鶏

二鶏

三猿の下の台石には二羽の鶏(※2)が陽刻されている。向かって右がおんどり、右がめんどり。庚申塔に描かれている鶏は簡略化されているものも多いが、さすが名工・青木宗義作とあって、しっかり細部にわたって刻まれている。

※2 庚申(かのえさる・こうしん)の夜に行なわれる庚申講(こうしんこう)は、夜明けを告げる鶏の鳴き声を聞いて解散することから庚申塔には鶏がよく刻まれている。また「申」の翌日は「酉」なので、庚申塔には酉が刻まれているという説もある。

憤怒相の中に慈悲の表情

青面金剛の顔

斜め横から青面金剛の顔を見る。憤怒相の中に「慈悲」の表情が垣間見えるのは気のせいか…。

「青面金剛」文字庚申塔

「青面金剛」文字庚申塔

主銘に「青面金剛」(しょうめんこんごう)と刻まれた文字庚申塔。石塔型式は駒型。江戸後期・天明3年(1783)造立。正面の最頂部に青面金剛を表わす梵字「ウーン」。中央に「青面金剛」の文字。

天明三癸卯十一月吉日

脇銘|天明三癸卯十一月吉日

左側面の脇銘は「天明三癸卯十一月吉日」。

孫右衛門 源七 彦左衛門…

寄進者名

右側面には「孫右衛門」「源七」「彦左衛門」「惣左衛門」「金兵衛」ほか、18人の名前が刻まれている。

青面金剛像庚申塔|享保四年

青面金剛像庚申塔|享保四年

青面金剛像庚申塔。江戸中期・享保4年(1719)造立。石塔型式は駒型。正面に「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」「三猿」が浮き彫りされている。脇銘は「奉供養庚申待為」「二世安楽也」「享保四己亥十一月吉祥日」とある。
 
台石には「十兵衛」「藤七郎」ほか八人の名前と、江戸時代、西方村の名主を勤めた「平内」の名がみえる。そのほか「東光院」(※3)「智性院」(※4)という寺院の院号が確認できる。

※3 東光院は、西方村の鎮守・山王社(現・日枝神社)の別当寺。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「西方村」の項に、「山王社 村の鎮守なり、別当 東光院…」とある。別当寺(べっとうじ)とは、神社の管理経営を行なった寺のこと。明治元年(1868)の神仏分離令で廃止された。

※4 智性院は、大聖寺が支配した小寺(こでら)。知性院とも表記される。『新編武蔵風土記稿』「西方村」の項に、「知性院 大聖寺の門徒なり、本尊は阿弥陀」とある。