越谷市新川町一丁目(旧・越巻村)にある満蔵院墓地(万蔵院とも表記)。場所は、七左衛門通りと蒲生岩槻線(埼玉県道324号)が交わる新川橋を武蔵野線の高架下に向かった150メートル右手。蒲生岩槻線と新川(古綾瀬川)に挟まれるように位置している。この地を開発した会田七左衛門政重が開いた永光山満福寺と称された寺院の跡地で、明治6年(1873)に越巻学校が開校された場所でもある。敷地内には越巻学校開設跡記念碑をはじめ地蔵菩薩立像など数基の石仏や石塔がある。
歴史
満蔵院の創建年代はつまびらかではないが、『新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「満蔵院 新義真言宗、七左衛門村観照院末、永光山満福寺と号す、当院は神明下村の民が祖先、会田七左衛門政重の開基なり、本尊は正観音を安置す」とあるので、江戸前期の建立と思われる。(山号)永光山(院号)満蔵院(寺号)満福寺。明治初年の神仏分離令の影響を受け、明治8年(1875)に廃寺となっている。
また『新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「薬師堂 正徳三年の建立にて、満蔵院の持なり」「稲荷社 二宇、一は鎮守にて慶長十七年、一は元和元年勧請すといふ、共に満蔵院持」とあるように、満蔵院は、神仏習合の時代、越巻村(現在の新川町)にある薬師堂と稲荷社二社の別当寺(神社を管理する寺)だったことがわかる。
新川町の薬師堂と二社の稲荷社
薬師堂は新川町二丁目にある越巻薬師堂。二社(二宇)の稲荷社は、満蔵院の向かい側にある丸の内稲荷神社と、老人福祉センターけやき荘の駐車場裏手にある中新田稲荷神社のこと。薬師堂と二社の稲荷社については下記の記事を参照されたい。
越谷市新川町二丁目(旧・越巻村中新田)にある越巻薬師堂(こしまきやくしどう)。場所は県民健康福祉村の東南200メートル。江戸中期・正徳三年の建立を伝え、墓地と隣り合わせた境内地には、巡礼供養塔や俳諧の師とみられる薫休居士(くんきゅうこじ)の句碑などがある。
越谷市新川町一丁目(旧・越巻村丸の内)の鎮守・丸の内稲荷神社。場所は、七左衛門通りと蒲生岩槻線(埼玉県道324号)が交わる新川橋を武蔵野線のガード下に向かった150メートル先。創建は江戸時代の初期と伝えられ、参道には江戸中期の青面金剛像庚申塔、境内には力石などが置かれている。
越谷市新川町二丁目(旧・越巻村中新田)の鎮守・中新田稲荷神社(越巻稲荷神社)。場所は県民健康福祉村の万葉植物園と老人福祉センターけやき荘の間。創建は江戸時代の前期と伝えられ、地元では、妙観照(みょうかんしょう)の名で親しまれてきた。境内には、一本松と呼ばれる大木の根本に二基の石仏(庚申塔と天神塔)が建てられている。
越巻学校
敷地内にある集会所の脇に「史蹟 明治六年公立越巻学校開設の碑」と刻まれた記念碑がある。満蔵院は、明治6年(1873)に、越巻学校が開校された地でもあり、それを記念して、開校120周年にあたる平成5年(1993)に建てられた石碑である。裏面の主銘は「小学校創立百二十周年」。脇銘に「平成五年四月吉日 建立」とあり、建立者の氏名が刻まれている。右側面には賛同者12人の氏名がみえる。
明治5年(1872)の学制発布を受けて、越谷にも公立の学校が設けられた。当時、校舎は寺院や廃寺が利用された。越巻学校はそのひとつだった。越巻学校は、明治14年(1881)に廃校となり、七左衛門村(現・七左町)にある観照院の育幼学校に統合されたが、その育幼学校は、今の出羽小学校へとつながっていく。
『越谷市史』通史下(昭和52年5月30日発行)「市内各小学校の沿革と現況」に、出羽小学校の歴史が載っている。以下引用。
明治6年四町野村(現・宮本町)迎摂院に公立啓明学校、七左衛門村(現・七左町)観照院に育幼学校、越巻村(現・新川町)万蔵院に越巻学校が開設された。こののち越巻学校は明治14年に廃校となり、育幼学校に統合された。
明治19年、育幼学校と啓明学校が統合され、四町野学校と称したが、明治22年の町村合併により、出羽尋常小学校と改称された。明治24年、出羽村四町野(元・宮本町)に独立校舎が建設され、七左衛門観照院の分教場が廃止された。
明治30年12月、校舎は火災で全焼、再び観照院を仮校舎として授業が続けられた。明治34年、現在地(谷中町)に新校舎が建設された。(中略)昭和29年、出羽小学校に改称。昭和49年11月、鉄筋三階建て新校舎が竣工した。引用元:『越谷市史』通史下「市内各小学校の沿革と現況」(出羽小学校)
敷地内の風景
路沿いにフェンスで囲まれた敷地内に入ると集会所の前が墓地になっている。集会所の右手に高さ3メートルほどの鉄塔があり、半鐘(はんしょう)が吊られている。鉄塔のうしろに見えるのは武蔵野線。かつて敷地内には火の見櫓があって、そこに吊るされていたものかもしれない。
半鐘
『越谷市史・資料編二』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)中新田産社祭礼帳(※)の項に、江戸後期・享和4年(1804)に、村人たちが満蔵院に半鐘を建立した記録が記されている。「享和四年五月 万蔵院に半鐘建立」。この鐘は、享和4年(1804)に建立された半鐘と思われる。
越巻薬師堂の軒先にも同じような半鐘が吊るされている。中新田産社祭礼帳(※)には「享和四年四月八日薬師堂半鐘建立」とも記されているので、薬師堂の半鐘も享和4年(1804)に満蔵院の半鐘と共に越巻村の人たちが建立したものだろう。
※中新田産社祭礼帳(なかしんでんおびしゃさいれいちょう)とは、越巻(現・新川町)で書き継がれてきた祭礼帳。祭りの収支のほか、当時の村の出来事なども記されている。
石仏と石塔
道路に沿ったフェンス際には、墓石のほか、石仏や石塔が並んでいる。
道標付き題目塔
電柱の脇に、上部が欠損している駒型の石塔がある。造立年代は不詳。ひげ文字で「南無妙法蓮華経」と題目(南無妙法蓮華経の7文字)が刻まれているので、題目塔(だいもくとう)と呼ばれる供養塔である。文字のはねた部分をぐんと伸ばす(ひげ文字の)書体は髭題目(ひげだいもく)とも称される。
左側面に「川上いわつき 川下そうか 向こしかや 道」とあり、道標(みちしるべ)になっている。満蔵院の脇を流れる新川(古綾瀬川)の川上は岩槻で、川下は草加、向(正面前方)は越谷なので、この題目塔は、昔からこの場所にあったものだろう。
一石六地蔵塔
フェンス際に並んでいる墓石の中にある明治13年(1880)の一石六地蔵塔。石塔型式は祠型。六体の地蔵が三体ずつ上下二段に陽刻されている。(左上)柄高炉=えこうろ=を持つ地蔵(中上)合掌する地蔵(右上)数珠を持つ地蔵(左下)幡=ばん=を持つ地蔵(中下)錫杖=しゃくじょう=と宝珠を持つ地蔵(右下)天蓋を持つ地蔵。右側面に「明治十三年 辰十一月吉日」、左側面に「世話人中」とある。
普門品供養塔
敷地の隅に、トタンの小堂があり、その脇に自然石の普門品供養塔(ふもんぼんくようとう)がある。造立は江戸後期・嘉永3年(1850)。上部に梵字・キャ。主銘は「普門品供養」、脇銘は「嘉永三戌年霜月」。台石に「當講」と刻まれている。
普門品(ふもんぼん)とは、観世音菩薩の功徳を説いた「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」という法華経の経典で、観音経(かんのんきょう)と呼ばれている。村ごとに、観音を信仰する人々が観音講(かんのんこう)という集まり(講中=こうじゅう=という)をつくって、毎月一回、地域の寺や当番の家につどい、観音経を唱え、会食しながら懇談した。
『越谷市史・通史上』越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)によると、越巻(現・新川町)に保存されている『産社祭礼帳』に、「毎月一日に、講中が満蔵院薬師堂で観音経を唱えた。腰弁当で朝から始め、一人で三十三巻、読誦(どくじゅ)した」という。満蔵院墓地の普門品供養塔は、台石に「當講」(当講)と刻まれていることから、越巻村の観音講中によって造立されたものだろう。
「新四国八十八箇所第二十番」標識石塔
小堂に向かって右手(道路側のいちばん奥)に、「新四国八十八箇所第二十番」と刻まれた五輪塔型式の石塔がある。満蔵院は、新四国八十八箇所第二十番の札所に指定されていた。石塔の四面には梵字と銘文が刻まれている。
梵字…(正面)キャー・カー・ラー・バー・アー(左側面)キャ・カ・ラ・バ・ア(右側面)ケン・カン・ラン・バン・アン(裏面)キャク・カク・ラク・バク・アク。銘文…(正面)新四国 八拾八所 第二拾番 満蔵□(※)□は欠損。「院」と思われる。(右側面)願以此功徳普及於一切 我等奥衆生皆共成佛道 文化十三 二月(左側面)銘文 奉造 観世音堂 虚空蔵堂 為二世安楽
裏面には「法印」「心城」の銘文のほか「仮の世に いとなむわざも ほかな□(※)ん」などの歌が刻まれているが、欠損箇所が多く判読不能。※□は欠損。「ら」か。なおこの標識石塔の梵字および銘文については、読みにくい箇所も多々あったので『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)を参照した。
三体の石仏
トタンの小堂の中に三体の石仏が安置されている。石塔型式は三体とも舟形光背型。年代は不詳。中央の大きい石仏は地蔵菩薩立像。地蔵尊の前に小さい石仏が二体置かれている。不動明王の脇侍(わきじ)である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)のようだ。向かって左が、忿怒(ふんぬ)を表わす制吒迦童子で、右が慈悲(じひ)を表わす矜羯羅童子。不動明王の脇侍がどうして地蔵尊の両脇に置かれているのかは不明。
満蔵院の地蔵盆
満蔵院には、毎年8月23日の夜に行なわれる地蔵盆という風習があった。平成2年(1990年)第22回越谷市民文化祭に出品された「越谷郷土研究会出品作品」の中に、「永光山満蔵院地蔵盆と燈籠の由来」と題した名倉さわ氏の作品があり、満蔵院の地蔵盆についての由来が紹介されている。以下引用(抜粋)
満蔵院には、年代不詳の三体の地蔵尊が小屋に安置されている。中央の一帯は大きいが、両側の二体は丈も低く小さい。当地の人々は、子育て地蔵様と親しみをもって呼んでいる。毎年(地蔵の縁日前日の)八月二十三日の夜に地蔵盆が開かれる。盂蘭盆の日、手作りの長方形の木の枠で作られた燈籠を持ち寄り、日の暮れるのを待って、燈籠に蝋燭の火を点す。人々は、夜涼みつつ、お地蔵様に参詣に来る。今も往古をしのび、その風習は続いている。手作り燈籠に描かれた絵は、ちょっとした夏の風物詩であろう。
引用元:『永光山満蔵院地蔵盆と燈籠の由来』(名倉さわ)
三体の地蔵尊
名倉氏が「三体の地蔵尊がある。中央の一体は大きいが、両側の二体は丈も低く小さい。」と書かれているのは、現在、ここにある地蔵尊と、不動明王の脇侍のことも含めて「三体の地蔵尊」と言っているのだろうか。それとも地蔵尊は三体あったが、両脇の小さな地蔵尊が破損したかの理由で、不動明王の脇侍(矜羯羅童子と制吒迦童子)が代わりに置かれたのだろうか。いずれにせよ、この地蔵菩薩立像は、地元の人々に子育て地蔵様として親しまれてきたことを物語っている。
交通案内
住所は埼玉県越谷市新川町1-295( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし しんかわちょう」。郵便番号は 343-0852 。地図などでは「万蔵院」と表記されていることも多いが、正式表記は「満蔵院」。公共交通機関でのアクセスは、東武伊勢崎線・新越谷駅西口から、朝日バス「出羽地区センター行き」で「七左ェ門通り」下車。徒歩15分。越谷駅西口からだと、タローズバス「県民健康福祉村行き」で「出羽小学校入口」下車。徒歩20分。車を駐めるスペースはない。