定使野共同墓地|「宝珠庵」跡
定使野(じょうつかいの)共同墓地に着いた(花田二丁目)。現在は、宮野橋の新方川下流60メートル先の右岸にあるが、もとは、この場所から150メートルほど上流(定使野橋と宮野橋の中間あたり)の右岸にあり、宝珠庵(ほうじゅあん)と呼ばれた寺院跡地だった。昭和59年(1984)から60年(1985)にかけて、新方川の改修工事のために、現在の場所に移転した。
二基の石仏|墓地路傍
墓地の入口横、ブロック塀の脇(路傍)に石仏が二基並んでいる。向かって右は、江戸中期・寛延4年(1751)の道標付き三界万霊塔(※3-a)。左は江戸中期・安永4年(1775)の青面金剛像庚申塔。
※3-a 三界万霊塔(さんがいばんれいとう)とは、命あるものが住む三つの世界◇欲界(よっかい)◇色界(しきかい)◇無色界(むしきかい)―と、すべての精霊(万霊)を供養するために建立された塔のこと。
道標付き三界万霊塔
三界万霊塔は道しるべも兼ねている。正面に「右こしがや道」「左さしま道」、左側面に「ふどう道」、右側面に「のだほうし花道」と刻まれている。「こしがや道」は越ヶ谷に通じる道、「さしま道」は、下総国(茨城県)猿島(さしま)に通じる道、「ふどう道」は、大相模不動尊(大聖寺)に通じる道、「のだほうし花道」は、野田・宝珠花(ほうしゅばな)に通じる道のこと。この石塔は元は別の場所にあったとのことである。
青面金剛像庚申塔
庚申塔には青面金剛像が浮き彫りされている。正面上部には「日月」、青面金剛像の足元には「邪鬼」、両脇に「二鶏」、邪鬼の下には「三猿」が彫られている。左側面に「奉建立庚申供養」、右側面に「定使野村 講中」(じょうつかいのむら こうじゅう)の文字が確認できることから、この庚申塔は、定使野村(※3-b)の庚申講中(庚申待をおこなった仲間たち)によって造立されたことが分かる。
※3-b 定使野は増林村の一部であるが、かつては単独の村であった。この庚申塔は安永4年(1775)の造立であるから、このころまで定使野村は単独の村であったのかもしれない。
そのほか墓地内には江戸後期・嘉永6年(1853)の馬頭観音文字塔や天明9年(1789)の観音菩薩普門品供養塔などの石仏があるが、今回は、墓地内には立ち入らなかった。
続いて花田第三樋門へ
花田第三樋門
定使野共同墓地を離れてすぐ、新方川右岸土手にあるのが花田第三樋門。(上の写真の黄色い▼印)
暗渠|雨水幹線
花田第三樋門を背に正面(西)を見ると、道路の横を真っすぐに、暗渠(あんきょ)が続いている。暗渠とは蓋(ふた)をした水路(排水溝)のこと。ふたの下は雨水を新方川に放流する雨水幹線(うすいかんせん)になっている。(新方川第28-1号雨水幹線)
案内役の秦野氏から樋門(ひもん)の問題点について解説があった。
台風などの大雨で、新方川の水位が上昇すると、雨水幹線への逆流を防ぐために樋門のゲートを閉じます。そうすると、今度は、増水して行き場を失った雨水の排水が不能になって、暗渠から水があふれ出し、住宅地に深刻な浸水水害をもたらします。これを内水氾濫(ないすいはんらん)といいます。
内水氾濫を防ぐには、樋門を閉じたときに、支流(雨水幹線)の水をポンプで強制的に本流(新方川)に汲み上げる施設(ポンプ場)が必要。花田地区には四箇所の樋門があるが、ポンプ場を併設しているのは一箇所(花田第一樋門ポンプゲート)しかない。花田地区の樋門すべてにポンプ場を設置するよう秦野氏らが越谷市に陳情しているそうだ。
移動|新方川右岸
花田第三樋門をあとに新方川右岸側の道を下流に向かって進む。50メートルほど歩くと丁字路に出た。(上の写真の黄色い▲印)
丁字路|北越谷駅へ続く道
丁字路から右を見ると道が真っすぐ続いている。「この道は、ほぼ直線で北越谷駅に続いている」という説明があった。途中で逆川を超える。この地点から北越谷駅までは約2キロメートル。
須賀用水跡
また案内役の秦野氏から「かつてこのあたりに下千間堀(現在の新方川)が須賀用水(すかようすい)に対して、ほぼ直角に合流する流路があった」という話をしてくれた。「昭和24年(1924)までには現在の位置へ下千間堀の流路が変更されていた」とのことである。
新方川右岸側の道を先へと進む。
トイレ休憩|花田スポット公園
9時35分。トイレ休憩地点の花田スポット公園に到着(花田四丁目)
花田第二樋門|スナッカラ地蔵の解説
花田スポット公園のはす向かい(新方川右岸土手)に花田第二樋門がある(上の写真の黄色い▼印)。トイレ休憩のあと、これから訪れるスナッカラ地蔵について、案内役の秦野氏が、40年前(昭和60年ごろ)に撮影した貴重な写真などをまじえて、解説してくれた。
現在は、スナッカラ地蔵は、ここ(花田第二樋門)から新方川右岸を下流に200メートルほど行った住宅地の一画にありますが、かつて(区画整理が行なわれる前)は、花田第二樋門から40メートルほど西に建っていました。
「その当時の写真をお見せします」と、秦野氏が撮った写真を見せてくれた。
40年前に撮ったスナッカラ地蔵の写真
たしかに、写真の右手(土手の上)に、青色の花田第二樋門が映っている(上の写真の黄色い▲印)。合掌姿のお地蔵様(スナッカラ地蔵)と、その横には庚申塔などの石仏も並んでいる。
この写真はとっても貴重
花田第二樋門が新設されたのは1985年(昭和60年)3月。その後まもなく区画整理のためにスナッカラ地蔵を含む四基の石仏が現在地に移された。花田第二樋門とスナッカラ地蔵が共存していた期間はほんの短い間だったのだ。この写真は、移転される前のスナッカラ地蔵の正確な位置を知るうえでもたいへん貴重な資料といえる。また、花田第二樋門は、移転前のスナッカラ地蔵の位置を知る重要な指標にもなっている。(秦野氏)
秦野氏は、1980年代前半と、区画整理が始まった1985年当時に撮影したスナッカラ地蔵の写真をホームページで公開している。リンク先を以下に示す。
http://hatazoku.c.ooco.jp/sunakka1.htm
http://hatazoku.c.ooco.jp/sunakka2.htm
写真の無断コピーは著作権侵害(犯罪)にあたるので厳禁!
続いて、スナッカラ地蔵が元あった場所へ
暗渠|新方川第29号雨水幹線
新方川をいったん離れ、新方川第29号雨水幹線(暗渠=あんきょ)に沿って進む。最初の十字路を右へ
スナッカラ地蔵|旧所在地
スナッカラ地蔵が元あった場所に到着。住宅地の一画。現在は空き地になっている。上の写真の黄色い▼印のあたりにスナッカラ地蔵が立っていた。
稲荷社跡
かつて、この空き地の向かい側の奥のほうに、稲荷社があったが、今は家が建っていて、面影は何も残っていない。社の跡地は住宅になっているので写真撮影は控えた。
移動|現在のスナッカラ地蔵へ
スナッカラ地蔵・旧所在地(花田三丁目)をあとに、現在のスナッカラ地蔵(花田四丁目)へと向かう。距離は200メートルほど先。
スナッカラ地蔵
スナッカラ地蔵に到着(花田四丁目)。鞘堂(さやどう)の中に、スナッカラ地蔵(江戸前期・承応4年〔1655〕造立)のほかに三基の石仏が置かれている。案内役の秦野氏が、40年前、1980年代前半に撮影した写真を見せてくれた。当時(ここに移される前)とまったく同じ順番で並んでいることが分かる。重ね重ね秦野氏の写真は貴重な資料だ。
スナッカラ地蔵の名前の由来
「スナッカラ」は「すなかわら」(砂河原)が訛(なま)ったものと思われます。かつてこのお地蔵様があったあたりは、地元では「スナッカラ」と呼ばれた耕地でした。スナッカラ(すなかわら=砂河原)の地にあったから「スナッカラ地蔵」と呼ばれるようになったのです。
スナッカラ地蔵は、スマッカラ地蔵とも呼ばれることがある。鞘堂の横に置かれた「解説板」でも「スマッカラ地蔵」として紹介されている。同行した加藤氏が補足してくれた。
地元では「花田のお地蔵様」とか「すなっからの地蔵様」と呼ばれていました。ここから離れた周辺では「すな」が「すま」に変化し、「すまっからの地蔵」(現在は「スマッカラ地蔵」とカタカナ表記)と呼ばれました。本来ならば「すなっからの地蔵」(現在は「スナッカラ地蔵」とカタカナ表記)が正しい呼び方です。
花田のお地蔵様(スナッカラ地蔵)伝説
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は、『増森地区の石仏』(平成16・17年度調査/平成31年7月改訂)で「花田のお地蔵様(スナッカラ地蔵)伝説」の話を紹介している。以下引用。
昔、元荒川が花田のほうに花田を囲むように迂回していたころの話である。ある日のこと、この曲流した花田の元荒川を石のお地蔵様を運んで上流へと上る舟があった。花田のあたりにさしかかると、急に舟が動かなくなる。そこで人々は運ばれていたこのお地蔵様がこの地に安住したいのだと思い、舟から降ろし、堤の上に上げてお祀りしたという。
引用元: 加藤幸一『増森地区の石仏』花田のお地蔵様(スナッカラ地蔵)伝説
※地元の古老から古老にと伝わってきたスナッカラ地蔵についてのもうひとつの言い伝えもあるが紙面の都合で割愛した。
スナッカラ地蔵以外の石仏
鞘堂には、スナッカラ地蔵のほか、江戸中期・安永3年(1774)と、正徳5年(1715)の青面金剛像庚申塔、江戸後期・文化3年(1806)の馬頭観音文字塔がある(解説は省略)。そのほか、スナッカラ地蔵が流れてきた流路や台石に刻まれている銘文など、興味ある解説が続いたが、紙面の都合により割愛する。
移動|下千間堀(新方川)右岸に戻る
スナッカラ地蔵をあとに下千間堀(新方川)右岸に戻る。丁字路を右へ