大吉調節池
前波水神宮をあとに、新大吉橋に戻って、大吉調節池(おおよしちょうせつち)へ。池を左手に見下ろしながら遊歩道を歩く。ちなみに大吉調節池は、上から見ると越谷市の形をしていて、中央の二つの島は、埼玉の県民の鳥に指定されているシラコバトの形をしている。
文字庚申塔|大吉調節池東側路傍
新大吉橋から大吉調節池の遊歩道を200メートルほど歩くと公園の公衆トイレがある。そこから遊歩道を離れて、大吉調節池の東側に沿った道を北に進む。200メートルほど先のT字路の角地に庚申塔が建っている。
江戸後期・天保3年(1832)の文字庚申塔で、石塔型式は兜巾型。正面に「庚申」と刻まれ、その下に「村講中」「世話人」のほか、六人の名前が確認できる。右側面の銘は「天保三壬辰」「□□吉日」。「左側面」には「増林河岸」(※10)のか、五人の名前がみえる。
※10 増林河岸(ましばやしかし)は、古利根川の右岸にあった河岸場。古利根堰の先、現在の寿橋のたもとあたり。
新方川緑道|新方川左岸
文字庚申塔をあとに大吉調節池の遊歩道に戻る。調節池を左に見ながら新方川左岸沿いの新方川緑道を南に進む。正面前方にキャンベルタウン野鳥の森のバードケージが見える。新方川に架かかっている前方の橋は白鷺橋(上の写真の黄色い▲印)
白鷺橋
新方川緑道を白鷺橋に向かって進むと浦和野田線とぶつかる。左に曲がると新大吉橋。右に進むと北越谷駅方面に出る。道路を渡る。親柱に二羽のシラサギをイメージしたモニュメントが載っている。かつて新方川右岸・浦和野田線沿いの地区(現在の東大沢)は鷺後(さぎしろ)と呼ばれた。橋名板に「しらさぎはし」と、ひらがなで書かれているので、こちら(新方川左岸)側が、白鷺橋の出口になる。
白鷺橋|入口
橋を渡って新方川の右岸側(橋の入口)に行く。
新方川緑道|新方川右岸
新方川右岸の新方川緑道を下流に向かって歩く。正面の橋は定使野橋。前方左手に逆川の伏越(ふせこし)施設が見える。白鷺橋から定使野橋まではおよそ250メートル。
逆川の伏越施設|新方川右岸側
新方川緑道を伏越施設の手前で右に折れる。逆川は、新方川の左岸側にある伏越から新方川の下をくぐって、こちら側(新方川右岸)に出る。上の写真の黒いフェンスの内側が逆川。
逆川
新方川の下をくぐった逆川は、ここから南西に流下。大沢公園の東側で元荒川の下を伏せ越して御殿町に抜け、しらこばと橋の西方の瓦曽根溜井で、谷古田用水・葛西用水・八条用水と分水し、最終的に、しらこばと橋の先あたりで元荒川と合流する。
逆川緑道
伏越から逆川に沿って続く逆川緑道の東側にあるのは定使野公園(越谷市東大沢三丁目)。前方に定使野橋が見える。逆川に架かる小橋を渡って定使野公園に入る。
定使野公園
三メートルはあろうかと思われる石造りの時計台が目につく。公園内はちょっとした森になっていて、ベンチも点在。市民の憩いの場にもなっている。一角には藤棚もある。
水神宮
公園の北側(新方川緑道の脇)に生け垣で囲まれた小さな水神宮がある。入口には花崗岩(かこうがん)の鳥居が建てられている。この社地はもともとは個人の敷地だった。
越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告『増林地区の石仏』平成16・17年度調査/平成31年7月改定「定使野橋そばの水神宮」(p52)によると「この水神宮は[……]もとは個人の敷地内に祀られていた」とある。また、この水神宮の行事として「七月七日の『夜宮』(よみや)と呼ばれる夜祭り」が行なわれていたという。
三基の石塔
社に向かって左手に三基の石塔が並べられている。左から宝篋印塔、念仏供養塔、巡礼供養宝塔。
宝篋印塔
左端は江戸前期・寛永13年(1636)の宝篋印塔。風化がひどく銘を読み取るのはむずかしい。かろうじて台石の「寛永十三□□」「□海□□」という文字が読める程度。
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「鷺後用水路沿いの神社」(p108)に、この宝篋印塔について「水神宮のわきに[……]寛永十三年(1636)在銘の台石や相輪・塔身がばらばらになった宝篋印塔墓石が置かれている」とある。
この宝篋印塔は、昭和55年(1980)ごろは、基礎(台石)塔身(とうしん)笠(かさ)相輪(そうりん)がばらばらになっていたが、後年、修復したものと思われる。よく見ると、各部位をセメントでつなぎ合わせて積み直したあとがみられる。
地蔵菩薩像付き念仏供養塔
真ん中の石塔は地蔵菩薩像付き念仏供養塔。江戸中期・宝暦8年(1758)造立。正面に合掌型の地蔵菩薩立像が陽刻されている。石像全体に白いカビのように見えるウメノキゴケが付着しているので銘文は読み取りにくいが、「奉造立念佛同行三十二人信心」「施主」「敬白」「宝暦八□□天正月吉日」とある。宝暦8年の干支は「戊寅」(つちのえとら)なので、「宝暦八□□天正月吉日」の「□□」は「戊寅」と刻まれていると思われる。
巡礼供養宝塔
右端は巡礼供養宝塔。江戸後期・寛政5年(1793)造立。石塔の型式は兜巾型(ときんがた)。正面の最頂部には梵字「ア」。この石塔も風化が進んでウメノキゴケで覆われているので銘文は読み取りにくい。
主銘は「奉納 秩父 坂東 西国 四国 順礼供養宝塔」、脇銘は「天下泰平」「国家安全」。右側面には「寛政五癸丑天四月吉日」とある。
願主 市川惣右衞門
左側面の銘は、はっきり確認できる。「越後国三嶋郡出雲崎 願主 市川惣右衞門」。越後から出発して、西国・四国・西国・秩父・坂東の各観音霊場を巡拝し、この地にやってきて、この石塔を造立したのであろう。
「水神宮」文字塔
祠のうしろに石塔が一基、置かれている(上の写真の黄色い▼印)
初代「水神宮」文字塔
正面に「水神宮」と刻まれている。江戸後期・嘉永2年(1849)造立。石塔の型式は駒型。左側面の銘は「嘉永二酉□」、右側面は「□月吉祥日」。台石の正面には「氏子中」とある。
この文字塔は、かつては祠の中に納められていた。『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「鷺後用水路沿いの神社」(p108)に「ここは木祠のなかに水神宮の石祠が納められている水神社である」とあるが、その「水神宮の石祠」が、この文字塔だ。
二代目「水神宮」文字塔
現在、祠の中には、平成2年(1990)7月に、地元の氏子一同によって建立された二代目の「水神宮」文字塔が納められている。石塔型式は駒型。正面には「水神宮」、左側面には「平成二年七月吉日」、右側面には「定使野氏子一同」とある。
稲荷神社|花田二丁目
定使野公園の西側に公衆トイレがあるが、道路(弥栄通り)を挟んで、公衆トイレの対面に稲荷神社がある(越谷市花田2-14-2)。創建年代などは不詳。社地はせまく生け垣の奥にあるので見過ごしてしまうような場所だ。石鳥居とトタン屋根の古びた木の祠だけで石塔などは見あたらない。もともとは屋敷神だったのだろうか。現在の住所は花田となっているが、かつては増林村に属する定使野の地であった。
定使野橋|終点
稲荷神社をあとに定使野橋へ戻る。定使野橋から新方川上流を望む。手前に定使野公園と水神宮が見える。水神宮の横を通っているのは新方川緑道。水神宮のうしろに逆川の伏越施設、その先に白鷺橋が見える。千間堀と呼ばれた新方川、鷺後用水と呼ばれた逆川。用水路に沿って田園風景が広がっていたという古(いにしえ)に思いをはせた。
今回の史跡巡りはここで終了――
謝辞
本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげます。