参道の風景
社標
参道の入口には「総鎮守 山王 日枝神社」と書かれた社標が建っている。
総鎮守というのは旧西方村(現・相模町)の鎮守社の意。西方村は、三谷組・藤塚組・田向組・西方組・松土手の五つの小名(こな)に分かれていた。
かつては大相模郷(おおさがみごう)と呼ばれ、見田方(みたかた)・東方(ひがしかた)・西方(にしかた)の三村があり、見田方は八坂神社、東方は久伊豆神社、西方は日枝神社が鎮守社だった。久伊豆神社は大相模郷(おおさがみごう)の総鎮守でもあった。
参道前の道
参道前の道を西(参道に向かって左)に進むと、大聖寺の東門に突き当たる。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、「大聖寺の東門に行く(日枝神社前の)道は、地元では古くから伝わる古道と言われている」(※5)という。
※5 加藤幸一「越谷を通る奥州古道」本文(令和5年〔2023〕改訂)p.6.
一の鳥居
参道の入口に立っているのは一の鳥居。朱色に塗られた木造の両部鳥居(りょうぶどりい)で、本柱の左右に副柱を配している。参道の緑に映える色鮮やかな鳥居だ。建立年代は不詳。
神額
神額は木製。白文字で「日枝神社」と書かれている。
参道
社殿まで続く石畳の参道はおよそ100メートル。参道の両脇には松や杉などの大木が立ち並んでいる。
幟立て
参道を40メートルほど歩くと、両脇に石造の幟(のぼり)立てが一対建っている。向かって左の幟立てには「氏子中」「紀元二千五百三十四年」(※6)、右の幟立てには「当所」「明治七年甲戌十一月」と刻まれている。
※6 紀元2534年は明治7年(1874年)。紀元(きげん)は神武天皇即位紀元の略で皇紀(こうき)と呼ばれる日本独自の紀年法。日本書紀に記された神武天皇即位の年を元年とし、皇紀元年は西暦紀元前600年にあたる。
二の鳥居
幟立てを過ぎた20メートルほど先に二の鳥居がある。石造りの明神鳥居(みょうじんとりい)で、建立は明治42年(1909)10月。
二の鳥居をくぐると境内地で、参道の左側に、手水鉢(ちょうずばち)や一対の石灯籠、顔が破損した猿像などが置かれている。
手水鉢
江戸後期・嘉永元年(1848)奉納の手水鉢(ちょうずばち)。正面に「奉納」、中央に三つの桃が点刻されている。側面には「氏子中」「嘉永元申年九月」とある。
顔が破損した猿像
手水石のうしろに、首から上の部分が破損した猿像が置かれている。造形は、拝殿前の雌猿によく似ている。もしかしたらこの破損した石猿は、拝殿前のメスの石猿像の先代かもしれない。
新旧(?)石猿
上の写真の左が、先代と思われる猿像。右が、拝殿前の猿像。
石灯籠
手水鉢と破損した石猿の横に一対の石灯籠が置かれている。江戸後期・天保10年(1839)造塔。竿の正面に「御神燈」、側面に「天保十己亥季」と刻まれている。
台石の正面には「氏子中」、側面には「石工 寵五郎」のほか、世話人6人の名前が確認できる。金子忠右衛門・山崎半次郎・鈴木江左衛門・□見市平・水野孫右衛門・池谷権左衛門。
狐の彫像|右
石灯籠の竿の側面に、キツネが陽刻されている。上の写真は向かって右側の石灯籠に浮き彫りされているキツネ。片耳と顔が若干欠けているが、キツネと分かる。
狐の彫像|左
こちらは向かって左側の石灯籠に陽刻されているキツネ。残念ながら首から上の部分が欠けてしまっている。
もしかしたらこのキツネが陽刻された石灯籠は、明治40年(1907)に、山王日枝神社に合祀された稲荷神社にあったものかもしれない。
続いて、社殿前の風景を紹介していく。