恩間勢至堂
二番目のチェックポイント、恩間勢至堂(おんま せいしどう)に到着。
現在は集会所と墓地になっているが、江戸時代は「江戸時代は真言宗の庵跡(あんあと)だった」(※5)ようである。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』には「勢至堂 西蔵院の持」(※6)とある。いつごろ廃寺になったかは不明。
案内役の秦野氏から「勢至堂という名前から判断すると、本尊に勢至菩薩(せいしぼさつ)が祀られていたのかもしれません」との話があった。
※5 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「恩間勢至堂跡」の項、133頁
※6 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「恩間村」の項、147頁
越谷型青面金剛像庚申塔
入口の左手に、青面金剛(しょうめんこんごう)が浮き彫りされた駒型の庚申塔がある。造立は江戸中期・宝暦5年(1755)。
この庚申塔は「『越谷型』青面金剛像庚申塔」で、越谷型の庚申塔は市内に二基、恩間の勢至堂と小曽川の墓地で確認されています。
小曽川の越谷型青面金剛像庚申塔
小曽川(おそがわ)の「越谷型」青面金剛像庚申塔については、秦野氏が、自身のホームページで、写真とともに詳しく解説している。リンク先を以下に示す。
http://hatazoku.c.ooco.jp/osoga06.htm?fbclid=IwAR1rPanUyGdDLvgXkuH_zaUrJ-ThuSO3kjkBuVUHRD-lT9SKOu2Hy9nDwFk
「越谷型」青面金剛像庚申塔の特徴
「越谷型」青面金剛像庚申塔の特徴は、①合掌している。②左上手でショケラと呼ばれる女人の髪をつかんでいる。③青面金剛に踏みつけられている邪気(じゃき)が正面を向いている。④享保19年(1734)以降の造立。⑤邪気の下の三匹の猿(三猿=さんえん)は、中央の猿以外、左右の猿が正面を向いていない――の五つ。
「越谷型」青面金剛像庚申塔については、秦野氏が「越谷型青面金剛像庚申塔」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/762.pdf
境内の石仏
勢至堂の境内には、「越谷型」青面金剛像庚申塔のほか、江戸後期・寛政5年(1793)の青面金剛像庚申塔、不動明王座像、聖徳太子像、普門品(ふもんぼん)供養塔など、全部で 5基の石仏がある。
塀の外の石仏
塀の外、南側の路傍に三基の石塔が並んでいる。向かって左から地蔵菩薩立像、馬頭観音菩薩座像、馬頭観音文字塔。
移動|Y字路
すぐ先のY字路を直進。右は岩槻道(市道20993号)
間久里川緑道
間久里川緑道に出る。左へ進む。右へ進むと、最初に立ち寄った間久里川緑道の起点に出る。
整備された石畳
整備された石畳の緑道を歩く。空が青い。絶好のウオーキング日和だ。
メランポジウム
緑道には随所に花が植えられている。途次、黄色のかわいいメランポジウムが見送ってくれた。
交差点
中堀通りとぶつかった。信号の先、左手に施設が見える。
恩間ポンプ場
左手に見える施設は恩間ポンプ場。このあたりは越谷市恩間。
間久里川緑道|開渠
間久里川緑道の一部が開渠(※7)になった。なかなかいい景色だ。
※7 開渠(かいきょ)…用水路などで蓋をされていない(暗渠=あんきょ=になっていない)水路のこと。
花々とのふれあい
花を愛でながら、こうした風景を楽しむのも越谷リバーウォークの魅力といえる。
前方に信号が見えてきた
前方に信号が見えてきた。変則の五差路になっている。左右に延びている道は須賀川通り。信号の右手が三番目のチェックポイント。
須賀用水緑道の起点
三番目のチェックポイント、須賀用水(すかようすい)緑道の起点に到着。
ここは「須賀用水」と「間久里川」(まくりがわ)の分流地点にあたります。
須賀用水緑道|右岸
横断歩道を渡って、須賀用水緑道(右岸)を歩く。右手の道路は須賀川通り。このあたりは越谷市大道(おおみち)になる。ひとつめの信号を越えて、須賀用水緑道をそのまま直進。
緑道の風景
須賀用水緑道は一直線に伸びている。街路樹が紅葉を迎え始めていた。
越谷市三野宮に入る
信号にぶつかる。須賀川用水緑道と並行して通っていた須賀川通りはここまで。信号の先からは市道になる。右手前方は埼玉県立大学。横断歩道を渡って緑道の反対側(左岸側)に出る。ここからは越谷市三野宮。埼玉県立大学に沿って歩道を歩く。
埼玉県立大学
埼玉県立大は1999年創立。キャンパスは、建築家の山本理顕(やまもとりけん)氏が設計。1999年度のグッドデザイン賞施設部門金賞を受賞している。